飛花幽淪宵に散りて露命形魄の空竅を浥おす。祹業已亡く苑は薫灼架幻の垠を渡るも淼茫猶冽みて冥妙を存つ。孤篷揺漾として邃闃に囀えば昊缸旁礴幻化を闢く。
ゆくあてもなくゆく身のいつとも知れずゆきつきて、神去りし後の地の荒棄の目のあたりにして、聞くでもなく聞いたいつぞやの説話のいくつかを思いかえしては、あるいは此処が、でなければとんとわからぬ無明のなかほどに、高興と石塔の築かれて在る。
見遥かすとも見えず、渺渺たる天に百白の尻尾のうちひらめきて彼岸に至るの至らぬの、呆けるそばからめぐりてめぐり、世末の果て果て屍も朽ちる。
とかくも入りてあらためん、大きなる戸を軋らせきしらせ身のすべらして、
「誰か」
と、人のあるにも見えざれど、招かれざる身にもあらば、口上ほつほつつきほつらせて薄闇に仿う。
膚に纏ろう潤溽の、重きはさざなみに似て姍姍、八方とりどり燐火染めぬきて熒熒、九弁九仞のなかば瑩徹して狂い咲くは詩喰翁が題壁表化の如き倚魁を誇る。
調度の歳累浸漬の薫ると雖も玼玼昳麗存たれ全き人の業に相違なく、廻廊も復た塵穢つまふちほどもない。往きて朧朧嗌すれば志して亦往く。
階、重続し、肢、陽抑して升る。せめて澗谷の縫い淵ちに望むれば慰むるものを、合間に憩う場もなく坐りて尽きて息つきつきて、単煢昏きに滲漉す。
わたしを覗いてわけいって、深いふかい奥底にまで届くひかりの中をゆくきみの名の、影の、ふとした瞬間によみがえることのいまも幾度もあるのだけれど、この時も、わたしは冷たい石段にうつむいたままやわらかな微笑みを懐かしんで、帰りえぬ遠い日を想って、泣いていた。
いったい、なんの意味があったというのだろう。こうしてながらえ方々往き歩いたところで回生の秘の露ほども見えはしなかったではないか。
わたしの成すところの一切が無駄であると、誰かに教えられたかった。拘泥し暗澹と暮らす時の、一片の躙轢された落花にすぎないと、顧みる者もののいない瓦石にすぎないのだと、思い知らされたかった。
「……風?」
はるけき空境の、零すかすかな息吹のかすめる頬の、血潮のいまだ凝らぬことを、憎むような心持ちで少女は立ち上がった。
「いかなきゃ」
のぼりつめた先、扉の隔てたその先の、書架の全天に立ち並ぶさまにあなたの目は屢叩かれ、それを女は見ていたのでした。
「来たのね」
声に向きなおったあなたは立ちすくみ、底身におぞけの擡げるままに後じさりました。女には顔がありませんでした。顔のあるべきところには、虚無だけがありました。
けれども女の声は、まちがいなくがらんより発せられ、あなたを打ち据えるように耳朶へと流れこむのでした。
「無理もありません」
淡碧のような響きに、あなたは聞き覚えがありました。
わたしと同じ。
わたしの声。
叶うとも知れぬ願いのたよりなく揺蕩し、つかむことも厭うこともできぬままに無窮の廃苑を彷徨う者たちの、諦覚と庶幾の狭間に惑う者たちの声。
「貴女は」
女は答えず、林立する棚に消えました。あなたはあとを追いましたが、もはや姿は見えません。
「待って、助けてほしいの」
室内には、ただ音無き音が凪いだ海のように横たわっていました。あなたは書冊のあまりの厖大さに嘆息しつつ、その背をひとつひとつなぞりはじめました。
あらゆる変化の埒外に、置き去りにされたような世界だった。
最大最古の図書館の、伝承に在ること自体は子供だって知っている。現存するあらゆる書物の収められた、なんてどうしたって実現しようのないうそっぱちのこれっぽっちも澱みなく記述されて、かえって信じようもない御伽噺の、けれどもそんなあやふやなものでさえもよすがにしなければ立っていられなかった、生きることなど考えられなかったわたしは、だから妹の死んだ夜、生家を抜けだした。失われた魂を、取り戻す術を求めて。
最初の女は水先案内人として造られた。迷い子を、まれびとをいざなう命の古くから縛めのように女を呪って弛ぶことのけっしてなかった。女は連亘する文字に外界を夢見たが、夢見るほかは許されなかった。女にはまた、自身に巣食う飢渇を飼いならす径も与えられはしなかった。顔もなく、名もなく、通う血もない。女はこの塔の一部であり、塔そのものであった。
積み上げられた本の山に少女の雪色の髪が覗くたび、私の心はわきたった。あなたがどこからきて、なにをさがしているのか、私にはわかるのよ。あなたのさがしているものが、どこにあって、なにが書かれているか、誰が物し、どうしてここに紛れこんだのか、すべてわかる。でもね、いまは手を貸す気にはならないの。だって、私はあなたが妬ましい。私の知らない国から来たあなたが、妬ましくって仕方がない。私にはここしかない。私はここから出られない。あなたとはちがう。でも、私……私、私はいつからどうしてこうなったのでしょうか。わからないでいるの。どの本にだって書かれていないの。私は私を教えてほしい。私は私の本当を、誰か──あなた──あなたに────。
「ながく行方の知れずにいた娘の、歳のまるで取らぬままにひょっこりと郷里に帰る、といった口承の各地に散見されることと、彼女らが総じて記憶のある地点を境に自我の昏蒙と遡及の途絶を訴えたこととの関連性を確かめたいとぼくは常々考えておったのです。あなたは数少ない生き証人なのです。こうしてお話を伺えて、僥倖というほかない」
「ええ、それで、とにかく、あたしのねえさんのことを、あなたはあたしにききたいのね」
「はい」
「ずいぶんとまえのはなしよ。あたしはね、ななつのときに、いちどしんだの。たとえじゃあなくって、ほんとうに、かんぜんに、しんだというほかないってくらいかくじつに。けれど、ほら、いまはこのとおり。ねえさんのおかげ、あのおんなのおかげで、あたしはえいえんにこのせかいにしばりつけられている。ねえ、みて、みなさい、このてを、このあしを、このかみを、めを、はなを、くちを、むねを、ねえさんは、あたしを、どうしてこんなめにあわせたのか、いいえ、わかっているの、ねえさんは、ねえさんは、あたしもよ、あたしも、あたしたちは、おたがいをあいしていた、しんだことをうけいれるなんて、きっとできなかったんだってあたしにだってわかるわ、けれど、だからって、こんなおそろしいこと、けっしてかえらぬものをこんなふうに、ねえさん、ねえさん、どうしてかんがえついたの、いきかえらせるだなんて」
この領域は外界とは異なる法則に支配されています。最大の特徴は、そうね、ある種の永遠。ここにいる限り、あなたは肉体的変遷を免れることができる、ということです。たまに、喜ぶ娘もいるのよ。生の有限性から解き放たれるわけですから。はてしなく増え続ける書物に死も眠りも無く耽溺して飽かず、なんてことの夢でもなくまぎれもなく実現するのだから。まあ、みんな程なく発狂するのだけれど。わかるでしょう。いまのあなたならば。見えるはずよ、彼女たちが。
独力による退館は不可能です。私も散々試したわ。もちろん、嫌気がさしたならどうぞ。結局は次の憑代を待つことになると思いますが。
そして、ああ、そうね、あなたの願いはかならず叶えられる。司書職への正当な報酬として。誰が支払うか、なんて考えたくもないけれど、それだけは確か。ただし、あなたの思い描く通りのかたちであるとは限らない。たとえ時がきても妹さんのもとには帰らない方がいいでしょう。私も、私の願いの成就のその先を確かめるつもりはない。
そろそろ行くわ。長くなったけれど、構いはしないわよね。もうあなたに時間なんて関係ないんだから。
さあ、楽にして。
いいわね、あなたが次に目覚めた時、あなたは忘れているの。たくさんのこと、自分が誰であったかすらも。ここを去るまでは。
それじゃ、さよなら。
良い夢を。
コメント