バーチャルキャストで. ウマ娘のOPだけを観る日日.

プライベートスタジオなるものが作成可能となったが移動先予約じゃルームじゃSEEDじゃとめんどうなので横目で見ている
自分もしくは友だちのスタジオでいいこと、、、、ができるって話です要は、一緒に

といってもそもそもぼくは仮想空間内で誰とも交流していないですしする時間もないのであんまり関係ないんですけど、しかしたのしいだろうとは思います、いいですね、どうぞ

 にがつじゅういちにち。どようび。ごごさんじろっぷん。やることがなくなったので今日の日記を書き始めたけれど今日が始まってまだ五時間しか経っていないから特に書くこともないから書かなくてよい。土曜日。本来、いや本来とはしかしなんなのか。本来、いやしかし、本来、もう少し、いやしかしだがしかし本来。アルフォート食って生きる。腹が慢性的にいっぱいになっている。それはたしかに私が望んだ正月の実家っぽさなのかもしれない、一週間ちょっとやってみてだらだら働き続けるのは大変で、だからある程度忙しくしていたいとわかった、なぜなら、僕の座るこの場所にこたつはないのだし、なぜなら、僕の過ごすこの時間のあいだにうたた寝はできないのだし。だから、一定の、いやしかし本来、本来とはしかしだがしかしたしかに、それはあるようでない、ないようであるわけではないし内容ははなからありそうにもない渋谷、複雑な歩道橋を渡る、夜、階段をあがっておりる、暗い淀んだ川をまなざし、煙草を吸っていた。

阿久津隆著『読書の日記』p.375

日記に書くことってわたしはあんまり無くて、それはおそらくなんにも考えずに生きているからで、なんにも考えないで生きていると見落としとか取りこぼしとかいったことの無限に発生するせいであるからで、だからたぶん、いやきっとほんとうになんにも気がつかないで生きている、買った本とか読んだ本とかわかりやすいものにばかり意識を傾けてたくさんのことを拾えないでいる、だいじょうぶか

ネコポスの不在通知が入っていて、定期購読をはじめたwiredが送られてきたのだと思った
すぐ受けとりたいところだがすこし先の日を指定した、郵便受けに入らなければ置いておいてもらって構わないし再配達だって手渡しでなくてもいいなどと考える、が、まあね、いろいろあっていまの感じなのだろうということはわかるので、でも置いておいてくれていい、俺はアルフォートを食べなくてはならない

そういえば『よつばと!』15巻が発売されましたね、ぼくはあずま先生の漫画は『あずまんが大王』からなんですが、遡って『あずまんがリサイクル』など読んだりしましたが、『よつばと!』も12巻か13巻かまでは読んでいて、あまりにもつづきが出ないのでいつしか追わなくなったんですけど、久しぶりに読みたいな、どうする

公式がダンボー回の動画つくってた



第一話の試し読みもある、読みかえして、あーそうだこんなんだった、となった
微妙に時代を感じる、絵柄とか、調べてみたら2003年連載開始だった、当然だった

よつばと! 第1話 よつばとひっこし - 無料コミック ComicWalker
ちょっと変わった5歳の女の子「よつば」と、とーちゃんのふたり暮らしを中心に、まわりの人たちとの何気ない日常を描いた作品。だいたい1日1話のペースで、物語はゆっくりと進みます。 国内コミックス発行累計1430万部。さらに14言語に翻訳され、世界27の国と地域で300万部発行。(※データは2021年) 世代を超えて読み継が...



俺はもっと気の抜けた感じでここを運営すべきではないか、いま以上に
いま以上であることが肝要で、ということはいま以上でなければまったく意味がないということで、つまりそれはいま以下であってはならないということで、だからひとまず試みる、その価値はある、ような気がする試みる価値が、なんでもそうだが実際にやってみるまで掴めないところがあるもので、たとえばいまぼくは『読書の日記』的な書きかたを試みているのだがいや試みてはいない自然とそうなっているのだがなっているかどうかはともかくとしてとにかく試みるやってみる探ってみるということが大切なのでやってみています、そうした積みかさねの先にある境地というものをいつでも見てきたのだ俺は

ゲーム中一度しか流れないというウマ娘のOPがしっかりとつくられていて感心したが俺は遊ばないおれはねこだ

 わたしのなかにある根本的なものは、夢見る習慣と性癖だ。子供のときから独りぽっちで落ち着いていたという暮らしぶり、それに、はっきりしない遺伝形質により遠くからわたしをその不運な裁ち方で形づくった、その他の力もおそらく、わたしの心のなかを空想の絶え間ない流れにしたのだろう。現在わたしのかくあるすべてはこれに帰し、わたしのなかでもっとも夢想家からほど遠いように見えるものですら、疑う余地なく、ひたすら夢見る者の心、それも最高の状態にまで高まった心に属する。
 自己分析をするわたし自身の娯しみのために、心の動きの過程を──わたしにあってはたったひとつ、一生を夢に捧げ、夢見るようにしか出来ていない心の動きの過程を──できるかぎり言葉にしていきたい。

フェルナンド・ペソア著 高橋都彦訳『不安の書【増補版】』p.24

チョコレートを食べながらコーヒーを飲みながら本を読みながらこれを書いている、書く、という行為の価値は書いたものが残るとか情報や思考の整理とか可視化明文化伝達とか人や時と場合によっていろいろだと思うんだけど気持ちいいからって俺は思っていてそれだけで、思いうかぶままに書くじゃない誰のためとか何のためとか考えないで書くのってすげえ気持ちいいんだよねだからやればって思わなくもない、誰のためとか何のためとか考えるのもそれはそれでいいとは思うんだけど整えようとするからね目的があるといやいいんだけど退屈な文になるってだけだからよく見るやつになる、そのへんの連中が書くやつだよかんたんにそうなる俺のこの文もそう、実のところ配慮して書いているわかる? ただ作品になるとほんとうに知ったこっちゃねえなって書きかたになること結構あって掛詞濫用して一文に無数の意味があるような状態もよくつくるしそんで俺も読めなくなって最高に気持ちいいっていう、やれば? やってみればいい、退屈しているのなら、していないのならしなくていいんじゃないなんでもいいね、どうでも

コメント

タイトルとURLをコピーしました