しびれるような言語体験なんてそうそうできるものじゃない. 扉. 読書亡羊.

雑記

そういうものを書く、書かんとする作家はそもそも商業、もっと言えば専業ではやっていけないのかもしれない
他者の目が入った時点ではじかれて出版にまでいたらないとかありそうな話で、フィルターだもんね要は、質だってまちまちだろうし、というかこれはあくまでもわたし基準の判断に基づく言説で、買って読んでしびれるような、とか振りかえって皆無だったなと、お、とか、いいな、とかはそれなりに見つけたけど
それもあって、文芸? たいしたことねえなって思ってる、率直に

あんまり読んでいないからそんなふうに感じる、はずなんだけど、ほら相性だってあるし
100人中99人にとってのやべえ作家が残り1人の俺にはどうということもなかったり、逆だってさあ
でもどこかにいるだろうなという気はしています
まったく期待していないけど

というわけで?のろのろとだが新作を書いている
せっかくなのでおいとくねこ
なお初稿、今後変わってゆくかもしれない(すでにちょっといじった

 はじめのかけらは遠い、おわりの焔に似た朝で、わたしはわたしの空白ひとつ、ひりつくあわいに透かしてあなたとたしかめあうまま祈りたかった。

 永遠なんてくだらないもののどうしてあんなに欲しいだなんて思えたのかしら、なんて、わらってあなたはゆびさきを、音の、花風の敷くみたく、わたしのちいさな憂鬱に、途絶えようもないでほとる星辰へと結びつけたがったけれど、そんなんでだってしようがないくらい好きでしたから、だからわたさないで誰にだって時間にだって奪わせないでけっして、夢の、絵空のはてにまで、ことばを経ずとも騙りうる、あらゆる世界のたそがれの、ぜんぶのうその、一花、ひとひらまでをもさらって四劫にちりばめたのだった。

 ねむってさめればさめないままで、停止された理法の温度までだって象るふうな無尽のあなただった。わたしはわたしで忘れて途絶えた颸の透徹をまなうらに見るばかり、そうした今日でも昨日であっても語の錯雑と異なる明日を漂わせないでいられないで、だからか語れば在るいつだかを期待して語りつづけたし、あなたへと、ねえきっと、わたしはあなたにまだうつくしかったころの地平を贈りたかった、ばかみたいなどんな選択だってなんにもできない夜にはやさしい終端だった、きずあとひとつが狂いもしないでなぞらえられればたしかな輪郭だった、信じたかった。韻律は陽に月と振盪の軸線をひかりの際涯へ溶かしてゆく。虹架のおりには境界を、降る澄む丹沙の円環を、生まれも潰えもしないでゆらめくいつわりばかりを描いて過ごした。

『MONKEY vol.23』が届いた

特集は「ここにいいものがある。」
岸本佐知子+柴田元幸 短篇競訳とのこと
6作かな、収録されていますね
ちょっと読んでみます

ぼくはただ書くだけの人間で

意味とか価値とかなんだとかぜんぶどうでもいいんですよね
書くために書いて終わり
書かれたものは書かれたもののためにのみあって、俺のためには存在していない
書いたさきにあるものが、まつわるものが、書くという行為とつながっていない
たとえば公開するとか売るとか評価されるとか自己肯定感とか自信とか諸諸あると思うんだけど、内容にまったく影響しないし知ったことじゃない
書きたければ書く
そうでなければ書かない
載せたければ載せるしでなければ載せない
単純で、だから尽くせる
そして上に貼ったタイトル未定のなにだかにおいてはまだぜんぜんあたらしいことをしていない、いまのところ、だからこそ俺はそこに、俺が今後なにをしてくれるのかなにを書いてくれるのかってところに期待できるんですよね

いま読みたいのはこれ

形象の力 - 白水社
修辞学の復権 伝説的名著合理主義を超えて フマニスム伝統の発見論証では到達できない世界がある。古代ギリシアの弁論術から近代詩まで形象言語の系譜を掘り起こし、天啓と洞察、芸術の力の優位を説く。論証では到

なんだけど、新品を定価で、とはいかなさそう
でも欲しい

あたらしいものを書くなか必ずといっていいほど『扉』をひらくんだけど

読む、というよりは眺めるために
そうしたくなるなにかがあるんだよな

 境界線のむこうがわにいたの。ある暮れの端に、わたし、手を振って、となえを訊ねたのだけれど、わからないってあなたはつぶやいて、舟は離れてゆくばかりで、だから大きな聲で、ルーレカって呼んだわ。捨てられた名前、つけられることのなかった名前、うまれなかった誰かの名前、あなたにあげるって。ルーレカ。ルーレカ。今でも考えるのよ、ばかみたいだけれど、それでも、いもしない人をいつまでも想っていたかった。ルーレカ。ねえ、愛していたかった。

ゆきひらさぎり『ルーレカ』


いまのわたしが『ルーレカ』のときみたく書けるかというとたぶんむずかしいんだけど、当時とは見ている世界がちがうから、呼吸も変わったしね、なんだけれども気持ちの面では通じていて、言語芸術を志向する以上一行一片たりとも手を抜かないしできることはすべてやる

鶴ヶ谷真一氏のエッセイがおもしろいということはTwitterでも言っていたかもしれない

 和本というのは鳥のように軽いと感じることがある。鳥が翼に風をはらむように、和本は綴じられた和紙のあいだに空気をつつみこんでいるからだろうか。昔、和本を商う書肆の店先で、主人が客に尋ねられた本を出すよう、書庫になっている二階に向かって言いつけると、丁稚がその本を取り出して二階から投げてよこした。本は座っている主人の面前に、まるで舞い降りたようにピタリと落ちてくる。それが書肆の丁稚の習得すべき手業だったのだという。

鶴ヶ谷真一『[増補] 書を読んで羊を失う』p.11

 花の香りをいえば、日本では古今集の昔から、なによりも梅を思いだすのではないだろうか。小野篁の、「花の色は雪にまじりて見えずとも香をだににほへ人の知るべく」。凡河内躬恒の、「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる」。
 名香三里を走るという。香の微粒子は鉄さえやすやすと通りぬけるので、名香を保存するには、鉄の箱ではなく、漆の箱に納めておくということを読んだことがある。香を聞くという言い方はなんとも美しいが、香道となると幽遠なもののようで、近づきがたい。

鶴ヶ谷真一『[増補] 書を読んで羊を失う』p.137-138

「思ひ寝の心の道をしるべにて夢に分入るみよしのゝ山」これは、名は伝わらないが、伊勢に生まれ久しく京にあった人が、ある夜、夢に感得してつくった歌だという。はじめの五文字をどうしても思い出すことができず、北野の御社に詣でて祈念をし、歌道の師であった綾小路風竹亭にもそのことを語った。風竹亭が御所に参内したおり、その歌のことを申し上げると、院はお聞きになって、はじめの五文字は「思ひ寝の」となろうかと仰せられた。御所より下がってから、風竹亭が院の仰せを伝えると、その人は思わず手を打って喜び、今の仰せによって思い出しました。夢に見た歌は、まさにそのとおりのものでしたと、しばし感涙にくれたという。

鶴ヶ谷真一『[増補] 書を読んで羊を失う』p.173-174

凡河内躬恒おおしこうちのみつねは平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。紀貫之と並ぶ延喜朝歌壇の重鎮。古今和歌集の撰者の一人。生没年未詳。家集「躬恒集」、と大辞林にある
実によい本なのだがAmazonだと新品が無いうえ定価(1,200円+税)より高い
状況が変わる可能性もあるのでいちおう張っておくが、読むということならば他で探すべきかもしれない

覗き窓

過去にも書いたと思うんだけど、WindowSwapのこと
要は自室の窓から見える景色をシェアするサービスで、開くと世界各地のが映しだされるのね
ほんとうにそれだけだから、すぐに閉じてしまうひとも多いかもしれないのだけれども、わたしは結構好きで、たまに眺めています
いまはRhyeとコラボ?してるみたい

WindowSwap
Open a new window somewhere in the world

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