ひたすら読み、ひたすら書く. ペソア『不安の書【増補版】』すばらしいのでは.

という生活が理想なんだろうな結局のところ
衣食住という基礎に読み書きを据えたら、あとは一切の気がかりのない暮らしがしたい、でもそれだって実現がむずかしいのかもしれない、だからしっかりと考えて動いてゆく必要がある


ぼくはどこかに行きたいとかそうした欲求が無いのでどこにも行かないでだってたいへんにたのしく過ごすことができる、そういう才能はあって、なので傍目には平坦な毎日になるのかもしれないが、実際心も穏やかではあるのかもしれないが、そしてそうした状態にあるからこそ特別ななにかを書きうるのかもしれないが、どうだろうか、どうにかできるだろうか、しなければならない、と考える習慣は平生持たないが、しなければならない、と感じている、しなければならない


たびたび言及する阿久津隆さんの『読書の日記』だが、人によっては「ああこんなふうに書いてもいいんだ」といった気持ちになれるのではないか、自在であること、は文芸におけるある種の才能を引きずりだすうえでの前提条件みたいなもので、そこをこえてようやく達しうる領域がある、ぼく自身過去にはそのことに気づけずよりよい文章ととのった文章真っ当な文章名文美文麗文のたぐいを志向していたが、それはぼくでなくてもできることであったし、できたことであったし、かわりがいくらでもいることであったし、なによりたやすいことでもあった、だからかいつでも退屈していたし、ほかならぬわたし自身から目を背けているような感覚があったし、お手本はどうなのか、他の人はどう書いているのか、この表現は正しいか、つたわるのか、よみやすいのか、といったことばかりに意識が傾いて、これはわたしの文なのか? これが? ほんとうに? こんなものが?、、、、、、、 といった観点を持ちえなかった疑いもしなかった、いやあれこれ書いておいてきっかけは『読書の日記』ではないのだけれども、まあとにかくいろいろあっていますげえたのしいんでこうでなければならない逸脱してはならない列を乱してはならないみたいなところでつまらなくなっているひとがもしいるのなら、ちょっと出かけてみる、、、、、、、、、、のもええかもしれんねって思ったと、それだけの話です

 丸善ジュンク堂に行くときはいつもは帰りは神山町を通って代々木八幡を通ってわざわざ開かずの踏切を待ってというルートをとるのだけど、空を見ると松濤の方角がまだ明るかったから、行きと同じような経路で帰った、つまり松濤の高級であろう住宅街を抜けて山手通りに出て、という道のりになるのだけど、東の空の低いところが濃紺で少しずつ薄い青になっていって西のほう、家々の屋根より少し高いあたりが青から黄色に変わるあいだの白い部分で、そこから少しずつ黄色が足されていった、その白い部分を喜びながら、それから前景の真っ黒の輪郭になった木々や建物を見ながら自転車を漕いでいた、明らかに手が冷たかった、今日は明らかに寒かった、しかし清涼な暮れ時の空を見上げていると気分はただただよかった。
 白眉は富ヶ谷の交差点で訪れた、そこで信号待ちをしながらふと西に延びる井の頭通りに目をやると坂を下ってぐっと上がる、その上がり方が狭い感覚で立つ街灯の明かりで明示されて、その奥に空が広がっている、その空がこれまで見ていた薄い黄色のその先を見せていて深い橙色で熟したようになっていた、走り過ぎていく車のテールライトや向かってくる車のヘッドライトやいくつも点る信号の光がまだ馴染みきらないような、そんな明るさの景色が途方もなく美しいもののように思えた。それで帰りにコンビニで肉まんを買って店に戻ってソファにどっかりと腰をおろし肉まん肉まんと喜びながら手に取り頬張ると、頬張ると、涙が出そうになった、私はただただ悲しかった。

阿久津隆著『読書の日記』p194-195

メモ #4

松濤しょうとう:松に風の吹く音を波にたとえた語。松籟しょうらい松韻しょういんスーパー大辞林3.0より

タグを設定しないだけでもとてもすっきりとする

やはりシンプルなのがいいということなのだ
ごちゃごちゃとよくわからないものをくっつけてよくわからなくなっているのはよくないのでよくありたく思うしよくあろうと思う、よくあるつもりでいる、そうした今日でいる

やるべきことと思われることをやりさえすれば生きのびられはするだろうが

しかしそれですべて欲求が満たされるわけでもないしなんとなくもやついたり焦れるなど人間はする、しがち、という印象がある、潜在的な、あるいはあらわれているヴィジョンをかたちにしたいしできれば労なくならないものかとどこかで期待している、期待なのか、期待して叶うことはあまりないように思う、叶えないかぎり叶わない感じがする、なかなか、そう都合のよい今日というものはないような気がする、あればよいが、ないような気がしている、足るを知るといった言葉もあってそれはそれでそうだろうと思うが、それはそれとしてそうでない人もやはりいて、わたしもおそらくそれはそれでそれとするがそうでない人であり、ほしいものがあり、ほしいことばがあり、ほしいかどうかもわからないなにかがあり、ほしくないあれこれもあって、それらのあまさず綜合されてこのわたしへと結ばれているのであり、日日を穏やかでありたいわたしでおそらくはあり、が、はたして叶うだろうか、などとこぼすわたしでもきっとある、叶えばよいと思う、叶えるわたしであればと思う

安心して眠ることができるひととそうでないひとがいそう

予約受付中! 史上初の宇宙ホテル、2027年にオープンへ
史上初の宇宙ホテルの建設が2026年から始まる予定だ。「ボイジャー・ステーション(Voyager Station)」は2027年のオープンを予定し...

篇 #1

蜜の深淵から降るふうなひかりの羅列と絲ひと神楽のいにしえはおれるけはいもなくきれいだとわたしには思われた、今日きょうのように、近似の昨日さくじつみたいに私は思われかえりみられもかえりえもせずにべもなく散る空と剥落と明日あすとになずんだからだをかかえてどこかでどこかの知れないままでも仰いで待つのだろうか、むかえにゆけたなら、あなたを、などと思われて、かさねて、たしかな感覚、が思う、おもう、おもうということの物思いの程度を思われるくらいには思われて、おもわれたくて、思われなければどうしようもあるものだろうか、そうおもわれたかった、たがった、あなたには、あなたにだけは、いまだけは、あるいは

ペソアがよすぎてずっと笑ってる

 わたしは、若者たちの父祖の世代が神を信じるようになったのと同じ理由で、つまりなぜだか分らぬまま、若者たちの大多数が神を信じなくなった時代に生まれた。そして、人間精神は考えるよりも感じることから、自ずと批判する方向に向かうため、そうした若者の大多数は神の代用品として人類を選んだのである。しかしながら、わたしは自分の属している本体から少しはずれたところにいつもいて、自分が一員である群衆だけでなく、傍らの広大な空間をも視野に入れる者の一人なのだ。したがって、わたしは彼らほど完全に神を捨てきれず、けっして人類を受け容れてもいない。神は存在しそうもないと同時に、存在しえるかもしれず、したがって崇拝されてしかるべきだと思った。しかし人類とは単に生物学的な認識に過ぎず、動物種としてのヒト以上を意味するものではなく、その他のいかなる動物種よりもいっそう崇拝に値するわけではない。自由と平等を唱えるこの人類崇拝は、動物が神のようだったり、神が動物の頭を持っていたりした古代の崇拝が復活したようにいつもわたしには思われた。
 こうして、わたしは神を信じるすべを知らず、ある動物の集合を信じることができず、人々の中心からはずれたところにいるほかの人たちと同様に、すべてから距離を置いた。それは普通、デカダンスと呼ばれる。デカダンスとは、無意識の完全な喪失ということだ。なぜなら、無意識は生の営みの基礎だからだ。心臓は、もしも考えることができたなら、停止するだろう。
 わたしのように、生きていながら、どう生きてゆくか分からない者にとって、我が数少ない同輩とっては、方法としては放棄、宿命としては観想以外に何が残されているだろう? 理性を持っていては信仰は持てないので、宗教生活がどんなものか知らず知りえず、人間を抽象化した考えが信じられず、現実のわれわれを眺めて、それにどう反応したらよいのかも分からないので、魂を持っているゆえに、人生を美学的に観想することがわれわれには残されていたのだ。そのため、われわれはあらゆる世界の儀式と関係なく、神にかかわるものに関心なく、人間的なものを無視し、自分たちの脳神経にふさわしい洗練されたエピクロス主義で磨かれた無意味な感覚に虚しく浸っているのだ。
 すべては決定的な法則に従い、それに逆らうことさえ、それが逆らうようにしむけたのだから自主的には逆らえない、というそのような中心的な規則だけを科学から頂戴し、さらにその規則が、物事の神聖な運命というさらに旧い、もうひとつの規則にいかに適合するかを確認して、われわれは、力の弱い者が運動家の楽しみを放棄するように、努力を放棄し、経験に基づいた博識からなる用意周到さで感覚という書物の上に身を乗り出す。
 何事も深刻に受け止めず、自分の感覚以外の現実は確かなものだと考えず、われわれは自分の感覚のなかに逃げ込み、大きな未知の国々であるかのように、それを探検する。そして、もしもただ単に美学的観想だけでなく、その方法や結果を表現しようと精出して取り組んだとしても、われわれの書く散文や韻文は、他人に理解してもらおうとか他人を動かそうとかという意図はなく、自分が読書を娯しんでいるのを他人にもはっきり分からせようとして大声を上げて読書するようなものに過ぎないのだ。
 あらゆる作品に欠点はつきもので、われわれの美学的観想のなかでもっとも心もとないものは、自分の書いているものに関してであろう、ということも十分に承知している。しかしすべては不完全であり、さらにいっそう美しくなりえないほど美しい落日はなく、さらにいっそう穏やかな眠りを誘われないような軽い微風そよかぜもない。したがって、山も彫像も一様に観想し、書物と同様に日々を娯しみ、とりわけ心のなかの実体に変えるために、すべてを夢見て、記述も分析もする。これは一度完了すると、外界のものになり、さながら夕暮れとともに訪れたかのように、われわれはそれは娯しむことができるのだ。
 これは、人生は監獄で、そこで閑つぶしに藁を編むと考えたヴィニー【アルフレッド・ヴィニー(一七九七-一八六三)、フランスの詩人、小説家。象牙の塔に閉じこもり、作品は孤独感と厭世感を特徴とする】のような悲観主義者の考えではない。悲観主義者になれば、何事も悲劇的にとるようになり、そのような態度は大袈裟で不便だ。確かにわれわれの創作する作品に何か価値があるとは思わない。確かにわれわれは閑つぶしのために創作を行うが、運命から気を逸らすために藁を編む囚人とはちがって、ほかでもない閑つぶしそのもののためにクッションに刺繍する少女のようになのだ。
 思うに、人生は、地獄から乗合馬車がやってくるまで待っていなければならない旅籠屋はたごやなのだ。何も知らないので、馬車にどこへ連れていかれるのかさえ知らない。待たされているので、この旅籠屋を監獄と考えることもできよう。ほかの人たちと出会うので、社交場とも考えられよう。しかしながら、わたしは性急でもなく、ありふれてもいない。部屋に閉じこもって、ベッドにしどけなく横になり、眠れずに待っている者をわたしはそのままにしておく。音楽と人の声がゆったりと聞こえてくる部屋で会話を交わしている者にも好きにさせておく。わたしは戸口に座り、目と耳を風景の色彩と音に集中させ、ひたすら自分のために、待っているあいだに創った意味のない歌をゆっくり歌う。
 われわれ全員に夜のとばりが降り、乗合馬車がやってこよう。わたしは与えられる微風と、娯しむようにと与えられた魂を娯しみ、もう尋ねも捜しもしない。もしも旅人のノートにわたしの書き残したものがいつか他人に読み返され、やはり旅にある彼らを娯しませるなら、それでよかろう。読まれず娯しまれもしないなら、それもまたよかろう。

フェルナンド・ペソア著 高橋都彦訳『不安の書【増補版】』p17-20

なんだこれマジでよすぎるんだが、ひょっとしてこの感じでずっとつづくのか?
だとしたらめちゃくちゃおもしろい

 ロマンチシズムの根本的な弊害は、われわれの必要としているものと望んでいるものとの混同にある。われわれは誰でも生に、生の保持に、生の継続に不可欠なものを必要としている。われわれは誰でもいっそう完璧な生や完全な幸福や自分の夢の実現(や……)を望んでいる。
 自分に必要なものを望むのは人間的であり、必要ではないが望ましいものを望むのは人間的だ。病的とは、必要なものと望ましいものを同じように強く望み、パンのないのを悩むように、完全でないのを悩むことだ。まさしくロマンチシズムの弊害がこれで、まるで手に入れる方法があるかのように、月をほしがることだ。

フェルナンド・ペソア著 高橋都彦訳『不安の書【増補版】』p21

(や……)はまだもっと羅列したいという気持ちのあらわれなのだろうか、だとしたらかわいい(たぶんちがう


完全も完璧もあるといえばあることになるしないといえばないことになる程度のものにすぎないのでどうとでも都合よく手にとって運用してゆけばよいと思っています
重んじているとしたらいまこの瞬間をよい時間にすること、できるかぎりながくよい時間を過ごすことで、どれほど役立つものでも枷となる瞬間がやはりありますから、そうしたときには躊躇いなく手放しますし、必要となればまた拾いあげますし、そうした判断を逐一くだしてゆく、というのはあくまでも理想ですが、しかし可能な範囲で行いたいとは思っています

うまいと思って食べていたものがそうでもなくなることがあって

味覚の変化というほど大げさなものではないのかもしれないのだけれども体調とか心の状態とかにもよりそうだしそういうのって、と思ったんだけどそもそもほとんど波立つことのない日日ですからゆるやかに遷移する移ろう過程のどこかで一線をこえこえたのちにしたため知覚されあれこれってこんなんだっけおかしいいやおかしいのは俺なんだがおそらくとかなんとかいぶかしい今日にゆきついているだけなのだろう、おかしくなかった今日にかえりうることなどあるのだろうか、そもそもあんまりだなもう食べないだろうなとなってしまったその後にあえてふたたび選びとって食べてみるものだろうかたぶんない、だからおかしくなってからの今日食べなかった今日が延延とくりかえされ蓄積され敷きつめられ2021年を埋めつくしてゆく2022年とか23年とかもきっとそうして死んでゆく、人間、という感じがする

映画『ブックセラーズ(The Booksellers)』が観たい

公開は4月23日だそう
映画館に行く理由がないので家で視聴できるようになるのを待ちます

映画『ブックセラーズ』公式サイト
本のない人生なんて。世界最大のNYブックフェアの裏側から見るブックセラー達と希少本の世界。本好き必見のドキュメンタリー。4/23(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテ、UPLINK吉祥寺ほか全国順次公開!

観たいといえば『JUNK HEAD』も観たい

『JUNK HEAD』は堀貴秀氏が単身制作をはじめ7年かけて完成させたというSFストップモーションアニメ
先に海外で公開されたらしくたいへんな評価をうけたそう
ぼくは↓の予告以上の情報は持っていないのでそういう意味でもたのしみなのですが、いやいいですね、観たい

映画『JUNK HEAD』 公式サイト
たった一人で独学で作り始め、7年の歳月をかけ完成した奇跡のSFストップモーションアニメに世界が熱狂 映画『JUNK HEAD』、2021年3月26日(金)アップリンク渋谷、池袋シネマ・ロサ、アップリンク吉祥寺他 全国順次ロードショー

スケザネさんが『いつかたこぶねになる日』の小津夜景さんにインタヴューをしておられる

ついさっき(21:00過ぎ)プレミア公開がはじまったところで、いま流しながらこれを書いている
まだ読んでないし手に入れてもいないのだが近いうちにかならずという気持ちがつよまりつつある
学校のいろんな先生がめっちゃ本くれるとかなかなか無さそう、おもしろい
スケザネさんの読書にめざめるきっかけも良すぎるな
進行するほどにたのしめるとてもよい動画

小津夜景日記*フラワーズ・カンフー

樋口恭介著『構造素子』、ミシェル・ド・セルトー著 山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』が届いた

これで安心して今日を終えられる(まだ
かるく目を通した感じ『構造素子』は「SF」で、『日常的実践のポイエティーク』は「腰を据えて読むやつ」という印象
どちらもおもしろそう、俺は運が良い

ぼくらはことばで考える、いつでもそうではないけれど

だからなるべくたくさん手札を持っておく、より深く、より広く、より濃くそして鮮やかに、軽重自在に思考する
単なる音、たんなる形、たんなる意味の綜合たる語を銘銘血と肉に変えてゆく、たいへんにたのしいことですよ、いまはもう読まない人生なんて考えられません、書かない今日だなんて考えられませんね

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