文章、というものにかかる期待. 宇佐見りん×梶裕貴. 柴田宵曲.

雑記

文章といって思いうかべるもののそれぞれあるでしょうがそのどれにも当てはまりたくなくない?って思ってる、つまらないから、文章って聞いて、本を買って開いて、端末を叩いてのぞきこんで得られるものへの期待ってあるじゃないそこに合致して求められたり愛されたり幾度となく読まれたり推されたりするものがあって大抵はそのうえでなにかをかたちにしている、んだけどどうでもいいなって、いやこの文に関しては先日書いたとおりある配慮、、、、がある、俺の作品の大半にもやはりなんらかの配慮がある、が、作品にかぎっていうなら今後はそうでなさがよりつよくあらわれてくると思う、だって俺じゃなくてもできるでしょわかるようにとかつたわるようにとかわからないようにとかわかれないようにとかかんたんにとかむずかしくとかどうとかなんとか慮るってことは、そのへんのひとたちがやっていればいいでしょなにかのためにだれかのためにとかそうしたいなら、知ったことじゃないね、たぶん、じゃないといつまでたっても天稟には到達できないでしょうよわたしがわたしに届かないうちにわたしが死ぬってことになる、やなこった、じゃない? 世界のなかで、誰かにわかるように何者かになりたいと、そうした気持ちの微塵もない人間もいるんですよ、そんなんじゃなく、わたしがありたいわたしでありたいだけのそうした誠実さだけをはなさないで生きていたいだけの人間もいるんですよきっとね、いやきっとねじゃなくここにいます、俺だ、だんだんわかってくる、で、そのうちなんにも書かなくなる、俺がどうとかどうするんだとかいうことは、わかりきるまでの記録という感じがある、あるいは定めるまでの過程という感じがある



自分にとってのよい状態って本人にしかわからない、わかれないことなんだけど理想ってものがあれこれと提示されるわけじゃないですか周囲から、メディアでも他人でもなんでもいいんだけどとにかくうるさくて、そうしたもののために自分を見失うようなことも起こりうるのかもなって、そうしたなにか、それらしいなにかに気を取られて消耗するって話はよくありますねって思った、そんでいいならそんでいい、でもそうじゃないなら自分のものみたく握りしめた自分のものじゃないよさ、、なんてぶん投げちまって真実よい今日を送りたいですね

Vegyn – Like A Good Old Friend

 我々。
 もっとも恐ろしさを感じたのは何よりも終わりの女の「え? 逃げる? 何を言っているの?」というところだったかもしれない。彼はイラクで戦う兵士であるからこそ価値があって、彼から軍服を取ったら、「そうしたらあなたはただの田舎の青二才以外なにものでもないんじゃない? そんな男を私が愛する理由があるとでも思っている? まさかね」と女は、そうは言わなかったがそう言っていた。彼の存在全体が求められ受け入れられ触れられ愛されていたわけではなかった、彼はさっき、そう勘違いしたがそれは勘違いだった彼は兵士だから愛された欲望された、その突きつけがビリー・リンにとって何よりもこの永遠のように続く終わらない地獄のような一日のなかで苛烈な出来事だったかもしれない。しかし我々とは、なんなのか。よく言う。どの口が言う。私たちは思考を文法に譲り渡してはならない。自分だけのリズムで踊ることが肝要である。自分だけのリズム。もし文法が私のリズムを邪魔しようとするならば、その文法は私の文法ではなかったから、私は私の文法で、リズムで、を、構築いや運動するそのことで自由のようなものが得られる私は私でいられる。と男は俺の横で心地よさそうに言った。布団に横たえた半身をこちらに向けて目は閉じたまま、うれしそうに口角をあげながらそう言った。俺はその男の口を手で覆い、それだけでは鼻から呼吸できることがわかって徒労となったので呼吸を根絶するため細いすべすべとした首に両手を回すとできるだけやさしく丁寧に力を込めていってそれをずっと続けたため途中で向こうから温度がなくなった。彼が死んだとき、僕も一緒に死にたいって感じだったんです。ビリー・リンは言った。

阿久津隆著『読書の日記』p385-386

ぼくも同じようなことを書いていて、お、となった、というかそういう捉えかたでなければ書けない文があるので当然だった、私たちは思考を文法に譲り渡してはならない、ビリー・リンとはベン・ファウンテン著 上岡伸雄訳『ビリー・リンの永遠の一日』の登場人物のようで、読まれ引用されていますね、おなじくいんようされていた坂口恭平著『けものになること』もよさそうでこれは買って読みたい気持ちがある、これは読みたいいんようのいんようはさけるが

けものになること :坂口 恭平|河出書房新社
けものになること ドゥルーズになった「おれ」は『千のプラトー』第10章を書き始めた。狂気と錯乱が渦巻きながら23世紀の哲学をうみだす空前の実験。『現実宿り』を更新する異才の大傑作。
【朗読】「推し、燃ゆ」

『推し、燃ゆ』は俺は掲載雑誌を所有しているのだがまだ読んでいなかった、梶くんの朗読でよい気がするが、どうか

種と球根の違いについて子どもに説明したいのですが、資料はありますか? | レファレンス協同データベース
レファレンス協同データベース(レファ協)は、国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築する調べ物のための検索サービスです。参加館の質問・回答サービスの事例、調べ方、コレクション情報など調査に役立つ情報を公開しています。

 十読は一写に如かずというように、昔の人はよく本の筆写をやった。これには、今のように簡単にコピーをとることができなかったという事情のほかに、文章の練習という意味合いもあった。作家志望の青年が、敬愛する作家の作品を一字一句丁寧に写しながら、文章の呼吸を学んだのだった。井伏鱒二は若いころ、志賀直哉の作品を原稿用紙に丹念に写して文章の勉強をしたという。千年亡くなった澁澤龍彦は、堀口大學の訳詞をノートに書き写して、詩の翻訳の機微を学んだらしい。没後、お宅にうかがう機会があり、そのとき書斎を整理していた夫人にこういうノートが出てきたのですが、本があるのにどうしてわざわざ書き写したのでしょうと尋ねられた。フランス文学の翻訳家でもあった澁澤龍彦も、人知れずそんな地道な努力をしていたのだった。

鶴ヶ谷真一著『月光に書を読む』p.121-122

先ずもって言葉に関する固着の観念を取りのぞく必要はあるが、そののちの段階への移行を果たしえたならば、こうした一見回り道であるところの筆写だとか写経だとかいった行為がものをいうようになる、いや取りのぞく必要はないかもしれない、特殊とか異常を志向するならせざるをえないなら、の場合、いやいやどうなんだろうか、こうでなければならない、といったものがあるとその場にとどまりじたばたともがきつづけるしかなくなる、あるいは成長の大幅に遅延しうる、学びとったはずのものを最大限活かしきることができない、柔軟性に欠く、等諸諸ありうる、私淑する作家は複数持つのがたんなるフォロワーにならないうえで重要であるのだが、他人の呼吸は他人の呼吸にすぎない、ということもまた理解しておくべきで、最終的には私はどうなのか、どう書くのか、描きうるのか、自身の呼吸を突きつめることになる、人によるだろうが、引用元は柴田宵曲についての篇であり、柴田宵曲については『古句を観る』をその存在をのみ知るばかりであったため先ほど青空文庫ですこし読み、これは紙で、との判断に至りました、いいですね

柴田宵曲 古句を観る

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