講談学術文庫のKindle本セールが.

いやもう今月は買うつもりなかったんだけどねしょうがないよねわたしはわるくないというわけで以下三冊を得た、あとAmazonで使える1760ptも得た、メチエもセール対象なのでどうしようかと考えている、ただよい本であるとか辞書辞典的な本はなるべく紙で手に入れたほうがぼくにはよくて、検索性に優れるならばそのかぎりではないのだが、いま読んでいる『花のことば辞典 四季を愉しむ』も結局買いなおす可能性あるな…と思わなくもないので、ない



たまたまそこにあったものですべてを片付けられる人生だったらイージーだったのにって思わなくもないけど実際そうはならんかったしなんなら価値のあるものはぜんぜん拾えなかった、誰かがうるさい何かがうるさいばっかりでうるささ以外のなんだってどこにもありはしなかった、自分がどういう人間かってことはみずからの意思でもって世界に触れにゆかなければちょっと定まりづらくって、不確かさのなかでふわふわと今日を過ごすのだってわるくはないとは思うのだけれどそうでないときもあってだから手を伸ばしたり引っこめたりをずいぶんとくりかえしてきたように思う、いつでもどこかになにかをさがすことはない、いつでもどこかでわたしでなくったっていい、なんだっていい、どういういまでもいい、そうした自由さだけは捨てないできたように思う、捨てないでよかったと思う



地に足のついた問題意識のまとわりついた身体性とか物性とかいったもののまとわりついたままに書く、ということにぼくは関心がなく事実そうしてこなかった、人間の言葉をつかって人間的ななにかを書いてこれは人間的ななにかですどうぞといった感じではぜんぜんなく人間の言葉をつかって人間的かつ非人間的かつありもしない境界線上のなにかを書いてこれは人間的かつ非人間的かつありもしない境界線上のなにかですどうぞといって自分の足元に転がしてきたのだった、おもうようにやりなよ、でなけりゃ息などたやすく詰まる、結局のところどこにもいないしだれにもならないなんらかのなにかのことば以外かたちになんかしたくないんだと思う、わたし自身すらかかわりない、にはまだぜんぜん届かないのだけれどもそれこそがそれだけがわたしの特異性なんだと思う、ほんとかよ、なんでも書いてたしかめてみるものだね



日記、日に思う想いこぼされるものの文字へと音へとかたちへとゆきわたる過程のおもわれるのだろうか、きみはかかないのか、とおもう、のか、かけばいいなんだって、と思う、書けばいいんじゃないなんだって、誰に読ませずとも、読まれずとも、どんなふうにだってあれるってことのどういうものなのかってことはそうなってそうやってそうあってはじめてわかりうることだから、だからそうあればいいんじゃないって思う



意味のあるらしい言葉を意味のあるふうに配列してこれは意味のあるものだと主張する気は俺にはないし意味のないらしい言葉を意味のないふうに配列してこれは意味のないものだと主張する気も俺にはない、どちらかであるとかどちらでもないとかどこともつかないどこかにいるとかそうしたことすらももはや考えてはおらず、そしてそれはそれどころではないということのためにそうなっているわけで、そんなことのために俺は生きてはいないということだからそうなっているわけで、だから現状そんなことのために生きてはいないしこれからもそんなことのために生きたりはしないのかもしれないということが考えられているしそうなる気がしている、なんとなくなにかが食べたい



体感覚とか自身を起点にひろがってゆくものの落としこまれてようやくわたしはわたしの言葉に到達しうるわけなのだが他性に依って在る、という選択をしてしまうと時事的なあれであるとかなんであるとかがたやすく主体となりかねず、自然出力されるものにおける自分じゃなさの度合いも高まってゆく、語り口とか切り口だとかいったことを気にかけるほどにつくられたもののきみじゃなくてよさはきわだってゆくし実際それはきみじゃなくてもつくりだせたものなのかもしれない、わたしじゃなくてもよかったし、なんならわたしはそうしてできあがったものをかんたんに退屈がってしまえる、たとえ自らの手によって創出したものであっても、どうでもよい話だが



ことばつかいしである条件はひとつだけ、ことばにつかわれないことです、ことばというものとのかかわりかたをぼくもそうですがたいていのにんげんはまちがったかたちでおしえられるためそんためにばぐるのですが、まちがったかたちでおしえたにんげんがせきにんをとるということはまずないしめんどうだってそんなにみたりはしませんだってどうだっていいからな、じぶんのことでせいいっぱい、そういうことにしておいてあげてください、なのでじぶんのゆがみやじぶんのしんどさにはじぶんできづくしかない、そのためのがくしゅうとかしこうとかでありまして、そうやってじぶんだったものをぼくたちはこわしてみたりつくりかえてみたりしてゆく、ゆくし、ありたさやなりたさといったものにちかづいてみたりありたくなさやなりたくなさからはなれていってみたりします、たのしいね、せいかいはなく、こたえもどこにもなく、だがどうしようもなくえらばなくてはならず、あるゆるしゅんかんに、あなたはあなたをせんたくし、かたちをとってゆく、とどめてゆく、じかんはひとしくうしなわれ、ありえたなにかもうしなわれ、うしなわれたならなかったし、それはもうきれいさっぱりはじめからなかったみたいになかったことになるし、なかったことになったものはなかったことになったいじょうけっしてかえらない、わたしはここに、このしゅんかんにひとつだけしかない、わたしはこのわたしでもっていきのびなくてはならない、なくてはならなくもないが、なくてはならないこととして、だとするとなくてはならないのでなくてはならず、なくてはならなさのためにわたしはここにあり、まだいきてある、わたしはことばつかいし、あとねこ、ということである



であるべき、とか、でなければ、といった限定的な態度はそのために得うる安逸もあるにはあるのだが状況の変化にクソ弱くマジでエグいリアルがあたりまえのようにありえてしまうので俺は推奨しない、わたくしはいまこうしておりますがこのようにもあれますしあのようにもあれますしなんならどのようにでもあれますという柔軟さを最優先で獲得しておきたい、ということをなぜ誰も教えないのだろうという気持ちで昔はいた、のだけれどもなんか単純にそういうのわからん人間しか身のまわりにいなかった、なんだろうね、自分以外のなにかに期待すること自体はぜんぜんいいじゃないですか、たとえば誰かの作品をたのしみにしている、とかすげえいいよなって思うんだけど、自分の人生のままならなさとかどうにもならなさをなんとなくぼんやりと誰かに何かにどうにかしてほしいとかなりませんかねとかそういうたぐいの期待をする、そういう種類の姿勢とか態度はやばいよなって、鳥の雛が口をあけて餌の放りこまれるのを待つみたいな状態で歳をとってゆくことのやばさにどっかの時点で無自覚ではいられなくなるとは思うのだけれどもそれはどうでもよくて、いやよくはないがほんとうにどうでもよくないのは現実の解像度を低く保ってしまうことによって自分のやばさに無自覚でいられなくなったにもかかわらず今日をどう生きればいいかわからない状態が生まれるところにあるというか、やばいんですよとにかく、知らんけど、というわけで俺はいま口をあげてなんかうまいものが放りこまれるのを待ち望んでいるのだが世界は冷たく現実は厳しくたぶん変な食用でない生命体くらいしか飛びこんではこないのでどうにかしようと思った、生きててえらいとかぼくはそういう言いまわしってしないし思いもしないんだけどきみとかあなたがなんとなくでもなんとなくでなくともそこにあってくれたならそれは俺にはうれしいことなのかもしれないとはいまは思っている、思えるようになっている、他人の人生は他人のもので、俺にはどうしようもない、だがどうしようもなさのなかにだってすこしくらいはどうしようもなくなさがあってもよかろうという気持ちでいますので、つまるところ、今日がよい日であるといいね、みんなにとって、といったことを俺は書きたいんだと思います、ので書いた



およそ適切とは思えない表現でもとにかくかたちにしてみること、誰に見せる必要もない、例外がないとかやったことがないとか判断がつかんとかそんなんは当然で、だからこそやってなんとなくでも掴んだりつかめなかったり確信を持ったりわからんってことをくりかえすしかない、お手本があると外れないこと離れすぎないことを意識するためどうしてもよくあるなにかになりがちなのだがそれこそが望みというのでないかぎり型の習得程度のつきあいで済ませたい、あとものすごく読んでものすごく書くをやったからといって必ずしもレヴェルがあがるわけではない、やばい文を読んでやばい文を書くからレヴェルがあがるのだ、と思った、やばい文をさがせ、書け



余地があるとか引きかえせるってそれ自体たいへんに恵まれた状態なので、可能なうちにいろいろやっておくのがええんよな

知られざるイタリアの出版社と作家たちの交流 対抗文化とその担い手たちの物語|じんぶん堂
チェーザレ・パヴェ―ゼ、ナタリア・ギンツブルク、イタロ・カルヴィーノといった作家をご存じの方は多いだろう。しかし、彼らが出会い、ともに食事をし、語り合い、活動した出版社のことはあまり知られていない。ここでは、『トリノの精神 ――現代...



じんるいはこれをよめねこ

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