『ニャイト・オブ・ザ・リビングキャット』第一巻を予約した.

昨日第一話を読んでもうだめだった、人間主体の展開で過剰な猫かわいい描写もなく実によい、しかもめちゃくちゃ漫画がうまく、加えてユーモラス、なんだこれは、というわけで昨日に引きつづきリンクを置いておく、ただし第一話以降公開終了している回もある、単行本を買うしかないのでは? 買うか猫かなのでは? ちなみに俺は買ったしねこだし紙にした、あと和山やま先生の『女の園の星』第一巻も買った、こちらはKindle版で、『夢中さ、君に。』をKindle版で買った流れでそうした、もうすぐ二巻が出る、『カラオケ行こ!』もおそらく買う、秀逸にすぎる



その時その時、瞬間におとずれるそうありたさとか自然とそうなるそちらに向かうって感覚が大事なのであって、そうでないものをそうでないままさもそうであるかのように装うってのは危険すぎる、自分を騙す行為でしかないのだもの、いずれ破綻する、この破綻するって感じ、予感に俺は結構鋭く反応できて、あ、駄目だなこれ、を察知する能力が年年高まってきているのだけれども、あと我慢がきかなくなってもきているのだけれども、そのために馬鹿げた生き方ができなくなってきており、つまり停滞するとか過去にしがみつくとか断定的な態度でわからないものをわかったふうに言うとか思うとかいった馬鹿さかげんに我慢がならなくなってきておりまして、つっても他人は知らん勝手にすればいい、俺がそうなることそうすることを許せなくなってきているだけの話、ただその手の人間そうと感ぜられる人間との距離はより遠く保つできれば完全に断つことが心の平穏のためには望ましく、極力関わらないようにしているところはある、俺は俺が愛するものに割く以上の何ものもこの手に持ってはいない



外界に気を取られていると誰がどうとか何がどうとかいったことに意識を持っていかれ自分自身から離れていってしまうと創作物も胡散くさくなるように思う、偏向が滲み、あるいは露骨にあらわれてしまい、いやもちろんつくろうとしてつくるというのが基本なんだからそもそもが大嘘だったりするのだけれども自分のものでもなんでもないものを自分のもののように出力してしまう感じがあって、まだ消化しきれていない腑にも落ちていないなんらか、血でも肉でも骨でもないなんだかよくわからんものを自分の一部として自分自身として差しだすような感じがあって、おそらくこれは技巧でどうにかなる部分でもあるとは思うのだけれども、フィクションであるということの空空しさとはまた別種の空空しさがのぞかれる可能性はやはりあるように思う、そうした兼合いで消耗する人間はまちがいなくいて、数年前の俺もそうだった、どうしたいかどうありたいかはいろいろなありかたやりかたを試みるなかで掴めてくるものなので、やらずに迷うとか悩むとか決めたつもりがどうにも揺らぐとかいった向きはとにかく何度も何度でも制作をくりかえし己を見極めてゆくのがよいと思う、実践と実戦のなかでしかわからんことがある、わかろうとしないとわからないものでもある



昨日得たAmazonポイントを使って宇田川眞人『雪月花のことば辞典』を購入した、『花のことば辞典』『風と雲のことば辞典』の著者でもあるみたい、こちらも紙で、688頁と商品ページにあった、たのしみね



『女の園の星』第一巻がおもしろすぎてそのまま第二巻を予約した、すばらしい、一話の試し読みを置いておく

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どんなに多くの人と共通したとしてもそれは固有のステータスであってだから自分だけのもので、すべてはそうで、われわれはすこしそのことに対して無頓着すぎたのかもしれないわれわれって誰だ俺とかそのへんの誰かか、とにかく無視しすぎた、見て見ぬ振りをしすぎた、とかでもいいのかもしれない、あるもの、あるはずのものをさも無いものであるかのように扱って振るまってたいそう生きづらい世の中をかたちづくってきたんじゃないの、と思ったし、そういう状態や流れはずっとおそらくはつづくし、だからこそ澄んだ空気を吸って生きるための知恵のようなものは必要で、選ぶ、選べる範囲で、ということのとてつもなく重要で、ということを思ったいまだった、ということを書き残したいまだった



地球の半分が一時に消しとんでぼくたちはそれはもう盛大に笑った。
健全かつ健康かつ不自由さの欠片もない笑いだった。
馬鹿らしさの殆どは灰燼に帰し、残り滓のようなか細い反響だけが名もなき空間に漂っていた。
馬鹿らしい、馬鹿げた連中の馬鹿みたいな弁明。
あなたの正しさらしきものは彼らによって証明されそこない、機会はもはや永久にめぐってはこない。
笑うしかない。
笑うしかなかった。
ぜんぶが無駄だった。

境界線をひろいあげて束ねる仕事をぼくたちはしていた。
実入りはそこそこ。
線上では悲鳴ばかりがぎらぎらと眩しく、増幅された帰りたさの途方もなさに一緒になって叫びだしたくなる日が毎秒ごとにあった。
でもぼくたちは自身の霊格上それだけは完全なかたちで抑えなければならなかったし、そのことにだけは完全に成功していた。
なんの意味もなく。
なんの意味もない、ということのなんの意味もなさに耐えがたいほどの眠りたさを感じる。
なさ、とか、たさ、とかいったものを感じとることによってぼくたちはまだ狂わないでいられる。
帰りたさに、なんの意味もなさに、眠りたさ、これらがぼくたちを閾値に満たないぼくたちでまだいさせてくれる。
ほんとに?
ぼくたちがぼくたちだと認識するところのもの、に実装された感覚らしきもの、の不確かさへの微かな疑心、とでも表現すればいいのだろうか、それほんと? 感というか、これ、どう書いたらいいの?
まあ、とにかく、たさ、とか、なさ、とかいったものの曖昧、不明瞭さを在るものとしておくこと、ちょっとした居住スペースを確保しておいてやること、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、自体がぼくにとってはある種の備えになっているのかもしれなかった。
わからないが、つまるところ、ぼくたちはぼくたちを守るためであるならどんな嘘だってついていいのかもしれない、ということのかもしれなさから芋づる式に連想されることごとについて考えるくらいにはくだらない仕事をしていた。
そういうことだった。
健全だし、健康だし、なんの不自由もない。
ぼくらはぼくらでいつでも無限にくだらない。
くだらなさだけがぼくらの推力だった。
それがすべてだった。

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