好きって言うのもむずかしいなって.

雑記

なにかを好きとかいちばん好きとかって言うの、それ自体はかんたんなんだけど言った瞬間好きではないなにかやいちばんではないが好きななにかの存在があらわれる感じがあって、ということを気にしないで好きを表明してそんでまったく問題は無いし無くていいしあって欲しくもないのだけれどもあってしまうというよねっていう、なんかね、たとえば創作がらみで自分とおなじ分野で活動する誰かが評価されたときにもやもやするなんてこともありうるわけじゃないですか、それを思うとちょっとあんまり言わんほうがええんやろうかみたいな配慮も生まれたりして口少なくなって、っていうのはどうなんだろうなっていう、どうでもいいか、いや、わたしに関して言うなら誰がどう評価されていても関係が無くて、それはぼくのぼく自身の制作物に対する信頼とか可能性とか絶対性が関わっていてつまりはゆるぎがないからで、だから比べてどうといったことにならないでいられるんですね、誰の真似もしない誰かのようには書かない日日変化する自己の瞬間瞬間の息遣いのようなものの結実としてのことばを連ねるというのはそういうことであって、そう、ぼくがここでその手のことを言及しつづけているのって単純に考えを整理したいとかその過程で過去の自分と現在の自分との差異をあきらかにしたいというかかってになっていってもらいたいという気持ちがあるからなんですけど、でも公開する以上読まれることはありうるわけで、ともすればそうやって書きつけた言葉が誰かの何かに役立つかもしれないちょっとしたらゆらぎを生みだすかもしれないそこから生まれる何かがあるかもしれないし負の印象を与えるかも知れない傷つけるかもしれないそうしたことの起こりうるわけで、好きの表明同様どうしたっていろいろ思いもしないような波は寄る、ただつまらなければ気にいらなければ読まないという選択だってもちろんあるのだからそんなのは自由でこことかここでないどこかを好きにゆききしてもらえばそれでよくだからみんなそうしているとは思うのだけれどもどうなんだろうなって気持ちはいちおう持っていますね、という話、をしつつどうだろうがなんだろうが俺は俺の思うようにここにあってそれがいちばんたのしい、を維持できるかぎり俺はここで俺の思うようにある、と思った



信頼というものの否定的な意見の表明によって獲得しうるという言説で「あー」となったんだけど、わかるというか実際そうだよなって、なんやかんや言って書いてそんでつながるものってたしかにあるので、そうした行為が技術らしきものとして利用されるのは当然というか自然というか、ただ誰もがわかってそうしたりそのようにつくられたものに触れているわけではないはずなので危うさがあるとしたらそこだろう、心理であるとかその操作であるとかについて学ぶのって大事なんだけどあくまでも自衛とか周縁にとってのよき日に結びつけるためのものであってほしい気はしていて、俺も使わないし、だからお世辞を言わないし機嫌をとろうともしないし好かれようとも思わないし思っていない人の言動を常時心がけているわけで、読みやすくもない文章を延延書きつづけているのも不親切といえばあまりに不親切だし実際どうなん、というところで生じうる信頼はあるのだろうか



そのとき正しいと思えるなにか、ありたいあるべきあらねばならないといったもののいつでも放擲できるのがよいし押しつけられるものの要求されるもののたやすくはねのけてしまえるのがよい、ぼやけてゆらいで定まることのない自我というもののふたしかさをこそあたしは把持していたい、といった程度の心持ちでなんとなくあるとそこまで疲れはしない、かもしれない



まだ自分には見えていないなんらかが必ずある、という状態は一生つづくのかもしれない、というかつづく

 起きるのが辛い。というよりも布団から離れたくない。というよりもタオルケットが大好きだ。毎晩寝る前は「タオルケットさん タオルケットさん あさまで ひとつ おたのみします」と声に出すわけだが、毎晩、本当にいい仕事をしてくれる。タオルケットの中にずっといたい。それで起きるのが辛いというよりは惜しく、いくらか寝坊したのちに起きて店に行くとひきちゃんがいたので挨拶をした。歓談をしながらコーヒーを淹れ、煮物を作り、開店して少しすると店を出た。いい日であれ、と思いながら店を出た。
 新宿に着いて時間がまだあったため伊勢丹に寄った。地下に一目散に向かった。地下二階だった、そこでモルトンブラウンコーナーに一目散に向かった、柱の裏側だった、近くにいた方にモルトンブラウンのことを聞きたいんですけれどもと伝えると少しするとやわらかい雰囲気の男性がやってきた。客、スタッフ含め、このフロアにいるほとんどが女性であるなか、モルトンブラウンの商品が陳列されたスペースでは男性客と男性スタッフが話すというたぶんそれなりに珍しい状態が生まれた。それでまずは去年のクリスマスシーズンに出ていたジュニパーベリーの香りのハンドウォッシュは今年も出るのでしょうかとお聞きした、はっきりしたことはわからないが、出るような気がしている、一一月すぎると発表されるので確認してみてくださいということだった。ジュニパーベリーと、ラップパイン。それはとてもいい香りだった、何度もお客さんから言及された、買った、買えなかった、いろいろ聞いた、そういう珍しいハンドウォッシュだった。
 それから今日買うものを決めるべくテスター遊びをさせていただいた。期間限定のやつが、グルマンな、という言葉を使われていた、甘い系のやつだった、香りの説明のなかに「ビスケット」というものがあり、「び、び、びすけっと……?」とお尋ねすると、そこから香料の話になって、香料の世界は奥深い、ということを教わった、それは楽しい話だった。マッコウクジラ、ジャコウジカ、そういう言葉が出てきた、もう本当には採れない香り、いろいろを混ぜ合わせて作り出すことでしか表現できない香りがいろいろある、という話だった。天然由来だったらいいというものでもない。天然はどぎつかったりする、そういうこともおっしゃっていたような気がした。たくさんの絵の具を使ってより立体的な絵を描くようなものだ、天然のものだけだと絵の具の数がとぼしくて表現できるものが限られる、云々。なんというか僕はこれはとてもいい、心地いい時間だなと思いながら話をしていた。けっきょく買ったのは「マルベリー&タイム」というやつだった。なんともいえない複雑で地味でいい匂いがした。明日から売り場に新登場する、ということが知れて、一日早かったか、と思ったのは「ピンクペッパーポッド」「ブラックペッパーコーン」であり、嗅がせていただいたところ「わ、胡椒だ」だった。

阿久津隆著『読書の日記』p.1053-1054

ようやくといえばあまりにようやく読みおえた『読書の日記』であるのだが、よかった、まだ読まない本をいくつも知ることができたのもよかったしここに書く言葉の読みづらく自在さの増したのもよかった、読みやすく易しく豊かな表現というものを心がけるのはひとつのありかたとしてやはりすばらしいものだがそれはいつでもわたしの仕事じゃない、わたしはわたしのやりようを、さぐっていつでもわからんままでいたい、のでよかった、といってもこれ書いたっけもう一冊あるって『読書の日記 本づくり スープとパン 重力の虹』があるってことを、こっちは六〇〇頁を超えていて『読書の日記』の一一〇〇頁超よりはまだあれなのだけれどもそれでも相当なんですよね、というわけでいったん積まれた小説を読みすすめることとする、あと日記のおもしろさがわかったのもよかった



というわけでベン・ラーナー『10:04』を読みはじめた、表紙をめくると「謹呈」と書かれた紙とそうした旨の記された紙が挟まれておりせめて抜きとってから売れと思ったが大量に送られてくるような環境だと処理のめんどうに感ぜられるものなのかもしれない、「ジュウジヨンプン」と書かれてあるのでジュウジヨンプンなのだと思う、と書いたところで先日買った別の本のこれも表紙をめくったところに訳者による名指しの手書きメッセージがあったことを思いだし、しかもそれがボールペンによるもので消すにしても紙をいためることになるだろうから仕方がないよないや売るなよと思った直後、事情があるのだ人それぞれに知らんけどと思いなおすなどした、古本は販売価格の定価との差異が大きい場合にのみ買うようにしている、一円+送料で手にはいるものに数千円を出すのもよいとは思うが、なにか特別な思いいれがあって新品が欲しいとかでなければ俺はそうはしない



言葉は便利で使える道具、それ以上でもそれ以下でもそれ以外でもない、という前提のもとに生きると感覚等言語以前、、、、の比重が増して世界の見えかたが変わるかもしれません、人によっては、言葉は後からついてくる(もしくは──置き去りにしろそんなもの)、わたしの書く、、もそうした視座があって成りたっているように思います、ただ比重の増すことで生じたなにがしかを翻訳、、の過程で痩せほそらせたりねじれさせたりするわけにもゆきませんから、なんやかんや踏みこんだり埋もれたり溺れたりしていますね、といっても感情の形容のしきれなさみたいなもののどうしたってつきまとうものですし、そもそも通念のだれにも隔てなくあてはまるものですらありません、おんなじ言葉でどうにかなる、なってしまうほど退屈なことは無く、そのくせわたしがわたしのことばに到達することのその実非常に困難だったりします、なので畢竟やつれもへし折れもするのですが、だからこそ制作をつづけていられるという感じもあります

メトロミュー「プラズマ」【Official Music Video】



クレメンス・J・ゼッツ『インディゴ』を予約した、発売前のため当然読んでいないのだが円城塔氏曰く天才らしいのでたのしみにしている、俺もなんとなく次の境地を感じとりつつある、たのしみにしている

インディゴ|国書刊行会
インディゴ ◆オーストリア・シュタイアーマルク州北部に、ヘリアナウという全寮制の学校がある。インディゴ症候群を患う子供たちのための学園だ。この子供たちに接近するものはみな、吐き気、めまい、ひどい頭痛に襲われることになる。



あと以前にも置いたがポンポさんが気になっている、花譜さんの曲も良い、まずは原作をすべて読みたい

劇場アニメ『映画大好きポンポさん』本予告



触れた作品が自分にとってどのようなものか、判断、というか感じられるのは自分だけなので他人の評価は関係ない、ただ世にあるすべてを消費し尽くすことは不可能だし己の興味範囲のなかでもぞもぞとやりつづけたところで見慣れた光景に凪いでそれきり人生が終わる、やなこった、となるとどうしたって外を見る、直面する知らなさのさきにおもしろさがある、手にとって、そうでもなければそれまでで、そんな感じでひろがってゆく



言葉に主導権を握らせるとたやすく振りまわされる、まず身体、あらゆる感覚がさきにあってそこからはじめる必要がある、そもそも感じられるものの訳出可能な割合自体わずかで語に精通するほどもどかしさは増す、知れば知るほど難くなる、だがだからこそ明文化するのであって(それは書くこと自体のために)、不断に、つづくかぎりに書き連ねるのであって、無論思考の量に文量が追いつくことはないが、しかし言語化の過程で剥がれおちたものをわたしは憶えているはずだ、わたし自身が、存在が、呼吸に澄ましてととのえる、息遣い、心の微妙な動きであるとか全神経全感覚に意識を向けてゆくこの感じを憶えているはずだ、言語は装置、わたしの創出したものではないが、それでもいまここにあるこのわたし、わたしの身体感覚をこそ基軸とすることで言語以前の言語化に到達しないまでも肉薄することはできる(はずである)、わたしはわたしを起点とし、わたしを離れた彼方から、わたしのからだを呼び起こす、そうした往還の果てにまだない世界が明滅してあるのではないか、知らんけど

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