よく晴れて風がつよい.

雑記

隠逸花 いんいつか
中国・北宋の儒学者周敦頤しゅうとんいは「愛蓮の説」を標榜した。曰く「陶淵明」は菊を愛好し、李白に倣って牡丹を好む者は多いが、自分は泥土の中で清らかな花を開く蓮を好ましく思う」と。さらに〈蓮〉は「君子の花」で、〈牡丹〉は「富貴者の花」なのに対して「菊は花の隠逸なる者なり」、つまり〈菊〉は俗塵を逃れ深山に隠棲している隠者の趣があると論じた。以後、菊花に「隠逸花」の異名がついた。

宇田川眞人編著『雪月花のことば辞典』p.388

花下 かか
花が咲いている下。唐・白居易の「春暖」に「風痺ふうひは和暖によろしく、春来脚校軽あしややかろし。鶯にとどめられて花下に立ち、鶴に引かれて水辺に行く」、白居易は脳梗塞を患っていたようで、中風には暖かいのがよろしく、春になってから足取りも少し軽くなった。鶯に引き止められて梅の花の下に佇んだり、鶴に誘われて水辺を歩いたりした、と。

宇田川眞人編著『雪月花のことば辞典』p.417

花軍 はないくさ
宮廷の侍女や女官たちが二手に分かれて花枝を打ち合う遊び。〈花合せ〉「花くらべ」などともいい、唐の玄宗皇帝と楊貴妃が侍女たちを二手に分けて遊んだという故事が伝わる。わが国の謡曲「花軍」は白菊と〈女郎花おみなえし〉の合戦を描いており、『御伽草子』の「草花太平記」は、美しい吉野の〈八重桜〉への老すすきの片想いによって草木が二手に分かれて争う「花軍」を、凝った花尽くしの文体で描いている。春の季語。

宇田川眞人編著『雪月花のことば辞典』p.566

というわけで読むのがたのしい『雪月花のことば辞典』、実によいと思います、ので他のことば辞典とあわせておすすめしておきます、ぼくは辞典であるとか事典であるとかいったものを読みはしてもそこにある知識をそのまま作品に落としこむということをほとんどしてきていないのですが、あと得た情報の整理もまったくといってよいほどしてこなかったのですが、これは拾った知識に基づく何かを自覚的に書く、という行為に魅力を感じないためにそうなっているわけでして、親しむうちにすでにある何かと結びついてひらめきとなってあらわれてくるのがおもしろいと、あれがただ気持ちよく、だからそうしているというわけなので、ちょっとあんまりおすすめはできないのですけれどもやりかたの一つとしてあるにはある、ありますから、試してみるのも一興ではなかろうかと、そのように存じます



『女の園の星』第二巻もおもしろかった、というかわらった、中身は異なるようだがうどんまん自体は実在するらしく、どうなん、と思った



なんとなく、ぼんやりとだがゲームをつくりたい気持ちがあって、テキスト主体の、spherulesのような、ニニのようななにかを、動き、というもののほとんどなく、ことばの降るみたく浮游する感覚だけがかすかに漂っている、わからない、わからなさをのみ果てもなくゆきわたらせたいのか



『花雛』の、嬋娟にそら吠えし、の嬋娟はあたしのあなた、、、、、、、を意識してのもので、そら、は辞書にある意味のいろいろがあてはまる、はっきりした動機、目的がないとかぼんやりしているとか不安定だとかいつわりであるとか、いろいろが



プレイヤーはねこ、夜の深奥から扉を通して無数のだれか、無数のどこかへと渡る、行って帰る、断片と、かすかなつながり、ことば

 ひととひとがかかわりあうことで、好意や嫌悪がかならず生じるはずだと思うことが苦しいです。これ以上近づきたいとは思わないが50年後もこの距離でいたいとおもう人が現れるたび、私はとても安心する。友達や恋人といった関係ばかりの世界に風穴をあけることができた気がする、遠く、しかし信頼する人が現れたとき、私は一人でも二人でもなくなり、それはなによりも自然であると思えます。
 好印象を与えるために会話をするということができない、印象など残さずにただ重要なやりとりや話をしたいと思う。それは、人間味のないことなのだろうか。関係性を最優先にするなら、私は核心に触れられない。尊敬する人にほど、あなたの思考回路を冷たいナイフで解体し、見てみたい、としか思わない、私の敬意はどこまでも無礼だ、けれど、その人の話を、こんなにも聞きたいと思う人は他にいないのではないかとも思う。
 私は時々とてもさみしいが、愛されるかどうかとかではなく、誰もがいつか必ずいなくなることがひたすらにさみしい。

最果タヒ『「好き」の因数分解』p.7



用いる言葉の古くなるあの感じってなんなんだろうなって年齢とか世代とか見る聞く感じる考えるとかそんなんのどこかの時点でぐるぐるしはじめる、定点観測、はしたくないししようがないしできないやりたくないそんなもんどこにもいたくない、虚無に毛の生えたようなねこでありたい

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