何者にだってなりたくなんかない.

雑記

 いまや世界は熟成し、幸福のあまり、死を願う。そこには永遠の香り、真夜中の臨終の幸福の匂いが湧きあがってくる。なぜなら、永劫回帰においては、死は生であり、真夜中は正午であり、苦痛は悦楽であり、賢者は阿呆であり、すべてはすべてに鎖で結びついているからである。それはおそらくは自己同一の崩壊した狂気の世界である。一八八九年一月に発狂したニーチェはコージマ・ワーグナーにこう書いた。
「私はかつてインドでは仏陀であり、ギリシャではディオニソスであり、アレキサンダーもシーザーも私の化身であり、十字架にかかったこともあるのです」

岩田靖夫著『ヨーロッパ思想入門』p.227

狂っていないと主張なんてできないたったのひとつだってできませんよといった主張をしつつ礎石を移動させるようなことをしているなんとなく、とかぼんやりと、とかふわふわと、とか書いたっけそんなこと言ったっけそんなことってことをずっとやっている気がする、はじめから、さいしょから、つよくてニューゲーム?誰でもありたくないしなりたくもないってところからいつでもリスタートできるようにこれまであったことぜんぶ捨てないで幾度だって引きかえし知りませんねなんにもって顔をして生きてどっかで死にたい、意味とか価値とか狂っていないと考えられませんよ誰かがある、、、と並べた概念なにがしかについて思う悩む考えるなどして足並みをそろえてきたのはたしかでありますみんながみんなそうするわけじゃないですが大半はそうやって定められたなんらかの傍らだか直上だかどこだかでごちゃごちゃやっているぼくは知らんで済ませてきたところの数多ありますが、ただ、いまここにあるそこにあるなにもかもを触れる聞く見る感じとる、実感、の抜けおちてまで把持する執着する水準には達していないし達しえないひとつだって満たないつまらん、ともすればそう、既存のあれこれ覗いて穿って矯めつ眇めつ傾いてしょうもなさに引っかかる蹴躓くのだがよく見ろそいつは言葉だ言葉でしかない、言葉は言葉以外との正常な結びつきにおいて正常な効力を発揮するが個体内における後者の像の薄薄と不明瞭である場合たやすく均衡を崩す暴力的一面を持つそういう場合か、と思う、だから俺はいま、そこにいるあなたが好きでしようがないと思う、やわらかであってほしいと思う、みたされていてほしいと思う、ありたさひとつも捨てないそのままなにもが叶ってそれがいいとすら思う、そこにいるはずのあなたのことが、俺は好きでしようがない、あらゆる主張は狂人によってなされる



おれはねこだ
これからほとけきをやく



わたしが書くもののわたしじゃなさはわたしの地に足のつかなさから来るものでなんもかんも知らねえっつって手放してそのくせいつまでも好きであるようなふざけた人生観から来るもので、わたしという軸、というのだろうか、わたしらしきもののたしかであるほどそこから言葉の選ばれるどこまでもわたしでしかない言葉が選ばれる、し、それはそれでうつくしさのあるもので感ずるところってあるのだけれどもわたしはそこではなんにも書きたくないなにも、理由もない



言葉を使ってだってひょっとしたら触れうるのかもしれない言葉のさきにあるものにだってってどこかでいつまで捨てないで思っているからこそ語りをつづけていられる、行為、動作もそうだと思う、目に手に触れないわからなさにさえあるいはかすめる瞬間があるのかもしれない、どこかで思ってだからそうする、、、、んだしそうしてきた、、、、、、んだと思う、触れる、そう、触れることもそう、そのさきで、そのひとの、もののなにかを感じうるかもしれない、そうできたら、そうあれたら、とどこかで考えているのかもしれない



わたしがよくやる、というか振りかえるとそうなっているのだけれども言ってしまえば語意の拡大解釈なんだけどその語の纏う空気とか感じとか連想される事象なんかを捕らえて繋ぎあわせることで文にする、ぼくの持つ印象とかイメージは嫌でももちろん書かれる誰かの抱く像も反映されてだから極めて個人的なものになる、ため読みとることのできない箇所が生まれるしそれで問題ない、成句とかできあがった言いまわしってあって、特定の語からするすると導きだされるよくある表現形容というものがあってどれも古くさく退屈で阿呆らしくしかしだからこそ伝わるというところのものでぼくはあんまり使わんかもしれんのだけれどもそうする理由がある際を除いて、伝える、ということを第一義とする場合を除いて、教養=引用みたいな文言を見てああだからつまらんのかとか思うのだけれどもそれはどうでもいい、自分の扱う言葉に疑いを持てないのはぼくにとってはぜんぜん駄目で、それはもう書かないほうがよいくらいのことで、定義のとおり教育されたとおり既にあるとおり思考して誰かのやるようにやったようになったようにならってなぞって思考してそんなんで十分だとはまったく感ぜられなかったから思考して放棄して分解して打ったり蹴ったりひっかきまわしてやっている、わたしのたのしさはわたしのなかにしかないしわたしのなかにいつでもある、わたしの存在、身体とか感情とかに結びついてようやく見えてくるもので、経験から外界からひろいあげた素材はその役にたつがそれ以上にはけっしてなりえない、ぼくらは拾った言葉なりなんなりをつかって何度だってぼくらをつくりなおすことになるしそのたび生まれなおすことになる、死ぬまでそいつをくりかえす、死ぬまでだったら何度だっておもしろがって飽きたりなんてしない、そういうおそらく自由らしきものがわたしを支えている、いまこの瞬間俺は何者にでもなりうる



周知の感情について書く、すでにあるなにかについて書く際そのこと自体を異常だとは思わないしある種の安心とか安定感がある、自分のこと、自分の感情について書く際に自分のこととか感情そのものをわからないとかわかれないとかうまく書けないとかでなくこれはほんとうに自分の感情なんでしょうか自分自身の身に起こったことなのでしょうかこれがわたしの記憶でひょっとしたら記録で不確かななにをも孕まず確実なものなのでしょうか絶対にこうでしかありえないほかのなんでもないって確信を持って言えるのでしょうかなんて考えながら書くことはあんまりないのかもしれない、いまここにある私だけは確実で不明瞭で蒙昧でわけわからん私であることは確実で前提で意識するまでもないとかかえりみるまでもないとかそれだけは確実だってんだったらspherulesは書けなかったな、と思う、わたしはわたしを不確かに思うし状態を状況を不確かに思うしどこにも地平なんかないしあってほしくもない、知らない、というところにいるときだけにしか書くことができない

 書けば書いただけは、書くことがなんでもないことだとたやすく書きつけうるようになるのであり、このことのいただきでは、書きあげるという秘匿がそのまま書きはてるという現前に重なり合わさりわかちがたくなる事件、閃光の持続が、動かない左手の動く体温によって招請され、みえかくれかくれみえするのではないでしょうか。詩人がなにものでもないものを実名とする時ならぬ時がそこにあります。ただ、「書くことがなんでもない」とは、書くことなどあってもなくてもよいの謂ならざることを、あるいは、書けばかくほど書くことが楽になる、いくらでもどのようにでも書きまくれる、こうしたイージに過ぎるエネルギー主義はもとより問題外としても、書くことの重みを逆に読まさせるためのなんでもなさ、というもうひとつひねった深読みも詮なきことを、はっきり言挙げしておかなければなりません。なりふりをかまわぬのが書くことの特性であり、なりふりをかまいつつプランずくめで書かれたものにはこちらがかまってみせるまでもないでしょう。それはなんでもないものの他ではないのですから。(以上における形なしに形なしを与えて形にするがごとき否定辞に留意されたい)
 右、とりあえず書くことにことよせて書きつけてみましたが、「書くこと」とあるのを「生きることと」と置き換えてお読みかえしいただければ幸甚。生きる、それこそまさしくなんでもないことの持続、ただ持続です。

帷子耀著『習作集成』p.422-p.423



さいきん、るいぼすねこになっている、味がよい、しばらくつづくと思う

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