ふと気になって「新書とは」で検索したら.

バリューブックスさんのサイトが表示された、バリューブックスさんはAmazonマーケットプレイスでたまにお世話になっている、ような気がする、いたような気がするが、どうか、それはそれとして新書は1938年創刊の岩波新書が最初らしく、あーなんか装幀的にもそういう感じあるというか時代を感じるよねなんとなくそもそも数十年の歴史のなか変遷してきたものなのか特に大きな変化のないままああしたかたちでありつづけているのかそこからまずわからないのだけれども(検索したものの岩波の公式サイトにつながらないなぜか)とにかくそうしたことらしく、ただ他のサイトに書いてあったのだがいわゆる新書サイズは実ははっきりと寸法が定められているわけではなく出版社によってまちまちという情報も見つかり(比較したことがないのでわからないが言われてみればそんな気もする)なるほどとなったところでいったん満足してちょっとだけわかった感覚でいる

新書とは?文庫本や単行本とのサイズや内容の違い | 古本買取のVALUE BOOKS
  こんにちは! 古本の買取・販売を行っている、バリューブックスの編集部です。 バリューブックスでは、毎日1万冊以上の本を売り買いしています。 本の業界に精通したプロとして、この記事では「新



『alt.』シャツが届いたし他に頼んでいたシャツも届いたしもう十分という気持ちでいる、十分とはなにかという気持ちでいる、十分とはなにか



心理学の本に「人はよい香りが漂っている場所では他人に親切になる」とあり、そうなのか、と思った、コーヒーだとか花だとか、好みは銘銘あるものだろうが、とにかくよい香りであることが重要であるらしい、なんとなくわかる気がする、心地よさの人としてのありかた振舞いに作用するというとずいぶんとかんたんなものだな、とそう思えるが、かんたんなところは実際たくさんあるもので、人間は、なのでなにがどうなろうと不思議はないし、そんならなるべくよい香りをさせておくのが自分にも他人にもよさそうである、が、俺は匂いの無いが好きなので香水とか芳香剤のたぐいは避けている



正誤のようにはっきりそれとつかめて安心できるようなものってそうそう無いんじゃないか、心とかなんとかいったものに関しては、「これが自分」と決めつけない自由さを僕は手放すつもりはなく、いつでも「そうじゃないかもしれない」、と考えている、誰がなんと言おうとなにをしようと揺るがないくらい自在であるには自己を確定固定してしまわないしなやかさのようなものが必要で、しなやかさを身につけるには、俺ではない誰か、を知る必要がある、あらゆる状況あらゆる立場、成育環境、自分が体験しなかったすべてのことを思考の材料にしてゆく必要がある(そういう意味でも読書は有用有益だが俺はそんなことのために読んではいない役立てるための読書はもちろんするがそれは達成したい目標や目的があってのことで、他を知る、はあくまでも副産物であり結果としてそうなるよね程度のものだ、しかし、そう、結果として我が身をたすけるものではある、ので、やはり有用だし有益だと書かざるをえない、ただなんでもそうだが受け身であってはあまり意味がなく、なんとなく読んでなんとなく読み終わって完ではあまり意味がなく、そうだな、わたしの場合は時間の許すかぎり一つひとつの事柄と真摯に向きあうことにしている、というかそうなる、書くとか何かをつくるとかいったことと真摯に向きあう以上自然とそうなる、そうでないとそうでないものしかつくれなかったりする、が、一つ自衛のために意識していることがあって、深刻になることはない、ということです、真剣になることはあっても深刻になることはない、たぶんそういう受けとめかたって重要で、深刻なものを読んだら感化されて自分まで深刻になるなんてことがあるかもしれないんだけどそうなると良くも悪くも引っぱられてしまって見失うのねわたしを、長時間ではないにせよ持っていかれてしまう、だから真剣に受けとめはしても深刻にはけっしてならないようにしている、これも自然とそうなるようになったな)、私はこういう場所で暮らしてこういう経験をしてだからこういう考え方をするようになった他はありえない私が正しいもしくは私がおかしい、あるいは、お前が間違っているもしくはお前が正しい、なんて極端な状態は最悪でしかない、この件に関して私はこう思うがあいつはこう言っている、あいつからは世界がどう見えているのか、を想像する必要がある(そして想像するには情報が要る)、私たちは銘銘がちがった経験をしてちがった人間とかかわって共通するものもあるけれどもその共通点の捉え方すら実のところ共通していないかもしれないその程度の共通具合でしかないかもしれないだからこそ、自と他の明確にある(ふうにいまのわたしには見える)境界線を超えることを考える、自分じゃない誰かになる瞬間というのものを言葉だけでなく感覚で、可能な範囲で拾い集めてゆく、どうしたいかどうありたいかとか他者との関係とか世界のなかの位置づけとかいろんなものの絡み合ってわけがわからん世界からこそこれはこうでなければならないなぜならぼくはこうだからこうじゃないものは許さない認めないとかそんなふうなうるせえ生き方はしたくない、といってなにもかもが足りていないが…さらに万人に向けて想像力を働かせるつもりもないが、だって結局人生において大切なのは身近な誰かじゃないですか、自分が好きでいる誰かだったりするじゃないですか、だったらその人(たち)のために己の持ちうるすべてを使ってゆきたい、他は知らん、他はだいたい、で全然よいですよそんなもん、ゆとりが生まれたときにでもなにか考えればよい、まずは自分がどうするか、が最優先かつ最重要だと考えます



自分の特性というかなにが好きとかなにができるとか知っているとかわかるとか気づくことができるとかそういうの大事だよねっていう、ネガティヴな、できないことのほうが強く残ってそちらに心を引きずられがちではあるのだけれどもおそらく結構な数の人間にそういう性質があるのだけれどもたとえば俺にできないことをできる誰かが世の中にはいて、俺にできることをできない誰かがやはりおなじように世の中にはいて、だから惹かれもするし協力するし群れてもいるわけで、必要だとか居てほしいとか思うわけじゃないですか自分じゃない誰かに対してそう思う、自分じゃない、自分にはわかりえない、持ちえないなにかを持つ誰か、異なる人生を歩んできた誰かに対してそう思う、だから、たとえば一般的な尺度で見ると否定されるような性質を僕が持っていたとして、そのことを気に病んでいろんなことが手につかなくなるといった状態になるつもりは僕にはまったく無くて、実際に無い、その手の尺度、常識でもマナーでもなんでもよいのですがいろいろと、社会やなにかにある諸諸って攻撃や排斥のために使われがちですし事実そのように機能することの多多あるように感ぜられるのですがそれがあたりまえであってほしくないと俺は思っていて、いやそうなるしそうせざるをえない状況はたくさんあるんですけどなんというか無理やり枠に合わせて合わさせて自分がなんだかわからなくなるとか嫌で嫌でしようがないとかそんな時間を誰かの内につくりだすためのものであってほしくはないよなっていうことを考える、気に入らない、単純に、だから、そうではなくて、自分にあった場所へゆくだとかそういった環境を構築するだとか無理の無い関係最適で心地よい関係を他者と結ぶだとか個個の豊かさや充足のためにそういった差異、何ができて何ができないとか何がわかって何がわからないとかいったものを扱いたいのだと思う、不毛な軋轢を避けるために使う、とかね、あいつはおかしい邪魔だとか鬱陶しいとかかんたんに言えるし言われるし否定もたやすくしうるしされうるじゃないですか、だからこそかんたんにそちらに流れるつもりはなくて、もっとよい場所があるんじゃないかとか生きやすい環境をつくりだせるんじゃないかとかたのしく過ごせる世界を望んでいいんじゃないかとかそのためにどうしようどうあろうと考えたほうがたぶん気持ちよいねって、そういった方向にゆくのがよいよねおそらくってことをいま思いつきました



いまある自分いまいる自分でなんもかんも全部完璧ってなかなかむずかしいんだけど望んじゃって求めちゃってついつい持たないなにかに手を伸ばしちゃってね、ほんとに一人で誰ともかかわらないでなーんも知らんでやってゆけるのなら全然問題ないありのままとかそんなんでいいでしょう、が、そうではない、となるとやるべきこととか乗り越えなきゃならん壁なんかが生じてたのしくもありしんどくもありみたいな今日になる、それはそれでよいしそこにおもしろみを感じて生きるとかある話ですが実際のところどうなんだろうね何が欲しくて何が要らないんだろうねどうしたいんだろうねってことをある程度、きちんと整理して自分で掴んでおく必要があるというか、あんまり曖昧すぎるとふわふわしちゃって結局どうしたの何がしたいのどうなりたいのありたいのってところで延延悩んでしまいそう、なのできっぱりしてみて、そんでその方向でしばらくやってみて、ちがうと感じたらさっと転換して、そのくりかえしになるかなやはり



既存の尺度はそもそも自分のものではない、借り物でしかないそいつを使って他人を誰かと比べてみても自分を誰かと比べてみてもそのさきに「わたしの答え」は見つからないように思う、じんわりとでもぼんやりとでも自身の感情を掬いとることができるならばそれをこそ軸にしたい、わたしがそうしたいからとかわたしが好きだからとかわたしがこうありたいからといったところを歩きつづけていたいですね



これおもしろそうねこ

週末読みたい本『ファッション イン ジャパン 1945-2020−流行と社会』|haconiwa
こんにちは。haconiwa編集部のさんどです。本日は『ファッション イン ジャパン 1945-2020−流行と社会』をご紹介します。戦後日本のファッション史を、社会情勢や流行から紐解く一冊。ファッションだけでなくカルチャー全般に関心がある



自己や他者との関係構築、問題解決とか軌道修正とかいったものの求められる局面が人生には無数にあると思うのだけれどもそうした際に役に立つのが批判的思考(クリティカル・シンキング)だったりする、↓を読んでいて単純に必須といってよいよなこれ、とのおもいを強くした、自分の人生をいきるとかどうしたいとかどうありたいとかありたさそのもの私そのものへの疑いをきちんと持てるかとか偏見の解消に意識的であるかとか反射的な意思決定をしていないかとかそもそも前提が正しく情報も正しく必要十分であるかとかそのときの判断最適解と思われたものが後になって覆りうると理解し新たな視点新たな知識を獲得し更新をかけ柔軟さを失わないでいられるかとか俺がのろのろ薄ぼんやりとやってきたことを行うための技術なので、DaiGo氏の本がとてもやさしくわかりやすい



何が大事で何をしたいかがはっきりしている場合そしてそれを極めたい場合注力して他を捨てる必要があるというが実際そのとおりのように思う、あれもこれもという気持ちは俺にもある、あれもしたいこれもしたいでふらふらしてみることもある、あれをしたいような気がするしこれをしたいような気もするしであれこれやってみるのである、しかしそれだとすべてが半端に終わる可能性がある、はっきりしているのであれば特化したほうがよいように思う、何をどうしたいかがまだわからないだとか、ある程度納得のゆくレヴェルまで成果が出ているのであれば、そのとき別のことをはじめればよいのだと思う



うまくやるための技術、質を高めるための情報が(どの程度かはそれぞれだろうが)まとまっている分野で成果を出したい場合、やはり学ぶ必要はあるよなと感じていて、とりあえずやってみる、ももちろん大事ではあるのだけれどもそれなりの期間そのようにやってみて思うような状態へと至ることができていないのだとしたら早い段階で切りかえたほうが精神的にもきっとよく、道もひらけうる、なんとなくでも運良く何者かになれるひともいます、たまたま培われた資質や天稟でどうにかなってしまうひともいるにはいる、時代と噛みあうそのときいる人間たちとの相性がよくどうにかなるということは実際にありうる、だがそこを期待してあるいは過信して学ばないというのはあやうい感じがする、ぼくは文章制作に関しては特に学んでおらず、やることと言えばぼくが才能を感じる書き手を読みこむだけなのだけれども、なぜならそれがいちばんたのしいからで、それ以外もうやるつもりがないからで、ぼくは文を書いて世に認められてお金を儲けてそんで暮らしたいという気持ちが現状微塵も無いのでそのためには動いていないからで、でも評価されたい愛されたい人望を得たいとかなんやかんや求めるのであれば自身の立ち居振る舞いについて真剣に考えますよねそりゃ、となる、ならないとしんどいもんね、学習しないならその覚悟を、するなら技術でもなんでも使い倒してすべてをどうにかしてみせるくらいの覚悟が欲しい

 カルディナル・ルモワール通りのわが家は二室のアパートメントで、お湯も出ず、室内のトイレもなく、代わりに消毒剤入りの室内用便器があるだけだった。それでも、ミシガンの屋外便所に慣れている人間にとっては格別不便でもなかったのだ。窓からの眺めがいいし、床にはスプリングのきいた上質のマットを敷いて寝心地のいいベッド代わりにしてあるし、壁には二人の好きな絵がかけてある。それだけで気分のいい、快適な住まいだった。借り出した本を抱えて帰宅した私は、その日見つけた素晴らしい書店のことを妻に話した。
「でも、タティ、きょうの午後にでもそこにいって、ちゃんと払ってきたほうがいいわ」妻は言った。
「もちろん、そうするとも」私は答えた。「二人でいこう。それからセーヌまで下って、河岸かしを歩こうじゃないか」
「そうね、セーヌ通りを歩いて、画廊やお店のウィンドウをみんな覗いてみましょうよ」
「そうしよう、足の向くままに歩いて、知ってる顔のだれもいない、こっちの顔も知られていない、新しいカフェに入ってみるんだ。そこで一杯やろう」
「二杯やってもいいじゃない」
「それはだめ。貸し出し文庫への支払いで、お金が要るんだから」
「じゃあ、うちにもどってきて、ここで食べよう。素敵な食事をして、協同組合で買ったボーヌを飲もうじゃないか。ほら、窓の外に見える協同組合、ボーヌの値段もウィンドウに貼ってあるもんな。それから二人で読書をして、ベッドにもぐりこんで、愛し合うんだ」
「あたしたち、これからも、ほかの人は絶対に好きにならないんだから」
「もちろん、そうさ。絶対にね」
「なんだか素敵な午後と夜になりそうね。さあ、お昼をすませましょうよ」
「すごく腹がへってるんだ」私は言った。「いつものカフェで、カフェ・クレームだけで頑張って仕事をしたからね」
「お仕事のほう、進んだの、タティ?」
「うん、うまくいったと思う。そう思いたいけどね。お昼は何があるんだい?」
「小さなラディッシュでしょう、それからマッシュ・ポテト添えの美味おいしい仔牛のレヴァーフォワ・ド・ヴォーにチコリのサラダね。デザートはアップル・タルト」
「それからぼくら、これからは何でも読みたい本が手に入るんだぜ。旅行するときにも持っていけるんだ」
「大丈夫なの、そんなことして?」
「もちろん」
「そのお店に、ヘンリー・ジェイムズもあるかしら?」
「まず、間違いなくね」
「わあ素敵」妻は言った。「あたしたち、幸運ね、そういう本屋さんが見つかって」
「ああ、ぼくらはいつもツイてるのさ」私は言ったが、ついうっかりして木をたたかなかった。叩く気なら、その部屋の至るところに木製の物があったのに。

アーネスト・ヘミングウェイ著 高見浩訳『移動祝祭日』p.58-60

「素晴らしい書店」とはシェイクスピア書店のことで、最後の「木を叩く」というのは英米の古い風習のこと、友人に自慢話をすると直後に災いが訪れるという迷信を防ぐためのおまじないだそう、なるねこ

コメント

タイトルとURLをコピーしました