とにかく読まねばはじまらない.

でなければ積まれる一方である、書いている場合でもないような気もするがそれはさすがにあれなので書くと読むとをいったりきたりする、つもりでいる、ついさっき届いた『江戸漢詩選』に目移りしてしまうが、しかし『インディゴ』の方が優先順位は高い、ので『インディゴ』から読んでゆくとする、どのようなものか、たのしみにしている




気になる本というものはいつでも無数にあって死ぬまで増えてゆくように思う、ほんとうにかんたんに増えてゆく、ので備忘録も兼ねて記事にすることにした(備忘録と忘備録、どちらでもよいようだがわたしには備忘録のほうが馴染む感じがする)、月ごとにまとめ、必要なときに活用したい




先日Google AdSenseから通知があって君この五ヶ月サイトに広告のせてなかったよねあとひと月のせなかったらアカウントをリセットするよといった通知があってそれはさすがにもったいないと思いもう一度配置することに、蓄積されたものの跡形もなく消し飛ぶので、なんとなく駄目な気がした




フロムの新作は来年1月発売予定だそうな、遊びたい気持ちだけはいつでもある




結局読んでる『江戸漢詩選』、↓は藤原惺窩ふじわらせいかによる五言律詩で、巡、淪、均、春が韻字とある、等間隔で配されていますね、それはそれとしてある種の達観が無ければ泰然なり傲然なりしてはおられぬものでわたし自身その境地には遠いように思う、死生観で言うなら死ぬからだからなに程度の認識でいるのだけれどもだって苦しいとか痛いとか誰かを置いてゆかねばならないとか避ける避けたい理由ってそれだけしかないものですから、嫌だなあって、あと終わられるのもさびしいから望むかぎり生きられる世界とか未来とかそうした現行の無理についても考えなくはなかったよね、ただどうあっても生きのびたい生きねばならないといったレヴェルの生への執着も相応の経験を通して生じうるというか、せいぜいがなんかわかったふうに言ってるだけの人でしかないのでわたしは実際のところ、とも思うので、ゆきたいかと問われるとゆきたいのですかそうした境地にと問われるとどうなんだろうねと答えるくらいものであります、どうなんだろうね? ああでもそういったことを考えるにしても深刻になるのはちがうんだよね、真剣に考えるのはよいのだけれども、このふたつって全然違って前者はどうしても負の面が強くなるというか偏向に陥る可能性が高くとにかく自在性に乏しい、しんどさがつきまとうのではないか、落差によって感じるものの増大されるとはいうし実際のところそうなんだけど暑いところから寒いところにゆくとか甘いものを食べたあとに酸っぱいものを食べるとかわかりやすいのだとそんな感じなんだけどだからしんどさや我慢のさきにある解放感とか達成感は当然大きくなる、でもそれは解放とか達成がきちんと用意されてあるからで、いつかはたどりつくことのできるからで、出口のない結論のない着地点のないどこかを延延うろついてどうなるかっつーとどうにもならずに軽度の地獄に灼かれねこで終わる、そして己のどこかに凝ってうるさいなにかがあるときは大抵情報が足りておらず経験も足りておらず思考も足りていないだけなので渉猟と沈潜を通して推し進めることにしている、いまいる場所から移行する、とどまらない、で、やったこと考えたことはどんどん忘れる、忘れないほうが知識のそれとわかって行使可能だしよりよく生きられると思うんだけどひらめく感覚が好きなんだよね、だから忘れてしまうようにしている、というかかってになっていった、忘れ癖がついている

 失題三首しつだいさんしゅ
寒 風 俄 怒 号  寒風かんぷう にわかに怒号どごう
野 艘 奈 逡 巡  野艘やそう 逡巡しゅんじゅんするをいかんせん
客 已 皆 如 酔  きゃくすでへるがごときも
我 何 独 不 淪  われなんひとりんせざる
安 然 起 臥 了  安然あんぜんとして起臥きがおわるも
元 是 死 生 均  元是もとこ死生しせいひと
笑 傲 浪 花 裏  笑傲しょうごうす 浪花ろうかうち
三 冬 有 小 春  三冬さんとう小春しょうしゅん

寒風が俄に吹き荒れ、田舎の乗合船は方途を見失っているが、どうにもしようがない。船客は皆もう酔ったようになっているのに、私だけが独りそうでないのはなぜだろうか。船の中で私が平然としているのは、もともと死と生とは同じものだと思っているからだ。白い波頭に取り囲まれても笑って傲然としていられるのは、厳しい冬の間にも小春日和の時はあると思っているからだ。

揖斐 高編訳『江戸漢詩選』p.33-35




ええですね、ゲーム制作のみが目的であるなら手段にこだわる必要はなく、つくりたいものがつくりたいかたちで成立するなんらかを選択すれば問題はない、とにかくつくる、ということが大切ですし経験値的にも結局



現状プラットフォームに依存した活動をしているのだけれども個が基となってコンテンツの蓄積されるようなありかたもいずれは実現するんやろうなと思っている、すくなくともそう見えるかたちにはなりそうじゃないいやどうか知らんけど、実際テクノロジの進歩によって境界線のいくつかは取りはらわれるのでしょう公開非公開条件付き公開とかそんな感じで個人情報だの活動だの作品だののAR/MRグラスに表示されてみたり仮想空間内に結構された巨大都市なりなんらかの領域なりに自身の拠点を持つことでネットにおける生活すべてが集約されるようなイメージ




作品の完成をのみ区切りとしてしまうと完成しないかぎり心に引っかかりつづける、なので工程(行程過程)をこまかく分けて捉えることが推奨されたりするんだけど、実際進捗があるかどうかって精神衛生上重要らしく、どこだかわからんにせよどこかには向かっている、俺はちぢこまってもとどまっていない…と思えるからだろうねおそらく、思考や行動の変遷とかいったものもそうで、進んでいる、と自分で感ぜられないとやっぱり心の濁りやすくなるみたいだから、完成しなければ成功しなければ評価されなければどうにかならなければならない、みたく目標と現地点との距離を大きくとりすぎず、低めの段差を確実に一つひとつ踏みこえてやってる感を得ながら取組むのがよさそう、なんにしても




バイオフィリア(Biophilia)は人間が自然の創造物に本能的に向ける愛情、トポフィリア(Topophilia)は人と場所や環境との情緒的な結びつきといったことが『WIRED VOL.41』に書かれている、トポス(土地)はギリシア語の場所という意味、ネイバーフッド(Neighborhood)は多義的な語だそうで、近所や近隣の人人、近隣住区、親しさといったニュアンスを含むらしい、人間関係の希薄についてはずいぶん前から言われていることのように思うが単純に在りかたの旧来と異なるかたちへと移行しただけしつつあるだけという気もする、人間側の一部だか大部だかが時代と環境の変化に対応なり順応なりできていないせいでよくわからん衝突や摩擦、葛藤やなにか様様なすれちがいが生じているのだろうか、それも元元あったものがネットの普及によって可視化され知覚され喧伝され伝播されより広く深くゆきわたるようになっただけなのだろうか、結局はいま自分のしていることとか自身が暮らしている世界とのつながりといったものと向きあうしかないのかもしれない、なにを望むか、どうありたいかといった欲求の容易に判然とするものでもないように感ぜられるが手探りにでもやってゆくほか定まるいつかは訪れそうもない、とにかく密接であればよいとか強固であればよいとか人間同士のつながりが、そんくらいかんたんだったら楽だったんだけど




AdSense、自動広告をオンにしているといたるところに配されるので切っておいた、記事本文の下とかサイドバーとかそのへんに出るはず、たぶん、反映されるまでにそれなりにかかるようなのでたしかめつつ調整してゆきたい




ほぼ触ってなかったVRChatをようやくはじめたんだけど他ユーザとの交流が目的ではないためわたしが所有するOculusQuest2でも入ることのできるWorld(OculusQuest2はスタンドアロン型でPCに依存しないぶん単体での性能が問われることとなる、結果として高性能なPCVRと同じレヴェルでVRChatをたのしむことはできないのだが、比すれば安価なのでそれはまあ…といったところでしょうか)を無言で散策しているだけだったりする、VRChatは名前からしてVR環境必須っぽいけど実はPCからでも遊べる、いまは居心地のよいWorldをさがしているところ

コメント

タイトルとURLをコピーしました