正誤のたやすく覆る状況における最適解ってなに、あるの、ないの.

示された明確な正解があり、それをなぞることで外れないでいられる、逸脱とか排斥とかいった諸諸の事態をあらかじめ避けられるといった状態の他存在との接触において避けがたくあるもので、というかそんなんばっかだったりするのだが実際のところなんのストレスもなくやってゆけるとしたら奇跡と呼んでよいかもしれないのだがそれはそれとして、そうした状態に慣れてあるいは慣れなくとも思考そのもの感情そのもの行動とか生きかたを過度に順応させてしまうと自己のどこまでも抑制され私の声なんてものは聞こえなくなる、なりうる、僕らは常からある種の洗脳を受けてきましたね幼少期は特に抵抗力が弱く生涯に渡って引きずるほどの影響を周囲から受けうるものでだからこそそうして築かれた私が私と信じる私、感じる私を疑い破壊し再構築するちからつくりかえるちからの獲得が求められてくるのですが、だってその手のどうとでもなりうるしどうとでもあってよいしどうにでもなりうる私を軸に据えていないと自分と自分以外とのズレ、うまくゆかないうまくやれないどうにもならなさが=でマイナスになりかねない、すれちがうことぶつかりあうことかみあわないことが=でマイナスになりかねない、=マイナスではない、ということがわかれない、しかしマイナスではないということはじゃあプラスなのかというとそうでもなく、よいものにもわるいものにもなりうる(なにがよくてなにがわるいかについては言及しない)しなにものでもないなにものかにだってなりうるものである、私たちの選択や行動次第でどのようなものにもなりうる捉えなおすことができるつくりかえることができるものである、わかれない、わからない、わかりあえないということの普遍的でありながら解消の困難でひょっとしたらしえなくて、そしてそうした状態に身を置くことはたいへんに疲れることなのだけれどもでもだからといってわたしがそれでも大丈夫ひととかなんとかわかれないわからないわかりあえないふうにそもそもできているしその前提があるからこそよりよいどこかへ向かうための創意工夫や試行錯誤といったものが生まれうるのです、大丈夫、といっただいじょうぶさをいつでも行使するかというとそんなつもりはまったくなくあらゆる他者に対してやわらかさみたいなものを発揮するつもりがあるかというとそんなつもりはまったくなくなぜなら単なる齟齬軋轢とは別種の消耗が生ずるからで、ただ嫌な消耗ではまったくなくだからどうしてもそうしたいそういうふうに関わりたい誰かに対してだけはそうあるようにしている、使えるエネルギーは限られているので、それでいいと思う、あとはなんとなくとかだいたいで済ませて人間関係とか環境とか状況への応じかた姿勢なんて好き好きで、ただみんながみんなそんくらいふわふわしていたらいろいろな面倒さが取り除かれそうだとは思っている




ものの見方の偏り具合は制作へも影響を及ぼして厄介だと思う
こうでなければならない、こうであってはならないといった思考は、それが評価や成果等当人にとっての価値を導出しつづけるかぎり高揚や自己肯定感をもたらすが、しかしそうでない、望むかたちやありかたへと至りえない状況、状態におかれた場合、強力な毒となりうる

拘泥は枷であり、その他という可能性を閉ざしかねない
偏向さえ排除できていればどのようにでも在りかたを変えられたのではないか、こうした事態は避けられたのではないかといったたぐいの振りかえりをぼくはしたいとは思わない
突きつめるのも、やめるのも、浅くも深くもひろくもせまくも濃淡も、自在であるならそいつがいちばんいい

「興味のタネ」は、自分のなかに眠る興味・好奇心・疑問。
「探求の根」は、自分の興味に従った探求の過程。
「表現の花」は、そこから生まれた自分なりの答え。

「アーティスト」としばしば混同されるのは「花職人」と呼ばれる人たちでした。「花職人」は、「興味のタネ」から「探求の根」を伸ばす過程をないがしろにして、「タネ」や「根」のない「花」だけをつくる人です。
 彼らはたしかに日々忙しく、真面目に手を動かしていますから、ややもすると懸命に「探求の根」伸ばしているようにも見えます。
 しかし、彼らが夢中になってつくっているのは、他人から頼まれた「花」でしかありません。自分たちでも気づかないまま、他人から与えられたゴールに向かって課題解決をしている人──それが「花職人」なのです。

 他方、「真のアーティスト」とは「自分の好奇心」や「内発的な関心」からスタートして価値創出をしている人です。
 好奇心の赴くままに「探求の根」を伸ばすことに熱中しているので、アーティストには明確なゴールは見えていません。ただし、それらの「根」はあるとき地中深くで1つにつながっていくという特徴があります。

「アートという植物」は、地上で輝く「表現の花」を咲かせているものもありますが、地上には姿を見せずに地下の世界で「根」を伸ばすことを楽しんでいるものがほとんどです。
 植物全体として見たとき「花」が咲いているかどうかは大した問題ではありませんし、ましてや「花」が美しいか、精巧であるか、斬新であるかといったことは関係がありません。
 その意味で、「アートなんてものは存在しない。ただアーティストがいるだけ」なのです。

  「私は絵を描いたりものをつくったりするのが下手だから、アーティストではない」
  「私は奇抜なアイデアを出せないから、アーティストではない」
  「私はクリエイティブな仕事についていないから、アーティストではない」

 こうした考えはすべて、アートの本質が「探求の根」と「興味のタネ」にあることを見落としています。

 私は、ここでいうアーティストは、「絵を描いている人」や「ものをつくっている人」であるとはかぎらないと考えています。「斬新なことをする人」だともかぎりません。
 なぜなら、「アートという枠組み」が消え失せたいま、アーティストが生み出す「表現の花」は、いかなる種類のものであってもかまわないからです。
「自分の興味・好奇心・疑問」を皮切りに、「自分のものの見方」で世界を見つめ、好奇心に従って探求を進めることで「自分なりの答え」を生み出すことができれば、誰でもアーティストであるといえるのです。
 極論すれば、なにも具体的な表現活動を行っていなくても、あなたはアーティストとして生きることができます。
 自分の「根」を伸ばす真の意味でのアーティストとして生きるか、それとも、他人の「花」をつくり続ける花職人として生きるか──それを決めるのは、「才能」でも「仕事」でも「環境」でもなく、あなた自身なのです。

末永 幸歩著『「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考』p.299-302

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