制作のための制作. 自分のための自分.

雑記

評価やお金を問題にするなら割り切ってそれらを得るための勉強なり練習なりをしたほうがよかったりする。
いまの僕みたく自分のためにしか制作しないというのであればなんだって構わないんだけど(構わないのは現時点では文章だけで、他は曖昧。じきわかるんだと思う)。


身を立てたいとか認められたいとかいった気持ちがあって、でも現状そこまでの技量があるわけではない、にもかかわらずあるかないかもわからない才能とか理想に引きずりまわされていやどうにかしたいとは思ってるんだけどでも…とか、だって…とかなんだかよくわからん感じでずっとぐるぐるしてます非常にしんどいみたいなの、昔漫画を描いていた時期に周囲(といってもネット上にだけど)に何人かいて、じゃあなにかしら学んで確実にスキルアップしてゆけばよいのでは? といった話をしたら、いや型をつかったり他人の真似をしたらオリジナリティが…みたいな返しをされて、ああ、これは関わらんほうがいい人たちだな、と、そう判断してそれきりになった。


上述したとおり、自分のための制作、制作そのものが目的の制作であるならなにがどうだろうが問題はない。
ただその後がある場合、自分以外の誰かがいる場合、彼とか彼女とかいった存在を意識した時点で俺俺俺俺俺なんていつまでも言ってはいられなくなる。


僕自身つくりつづけるなかで彼とか彼女とか彼らとか彼女らとかに向けてつくりたくない、、、、、、、自分に気づくことができた。
なので、すぐにはわからないものなのかもしれないのだけれども、ひょっとしたらこうなのかもしれない、という感覚を得た時点で一度ちらにむかって全力で振りきってみることをすすめたい。


定まるものがあると思うので。
逆に振りきってやってみないと一生はっきりしないで唸りながら死んでゆくことになりかねない。


正解は自分のなかにしかない。
やってたしかめるしかない。


ああでも承認欲求のために望まない何者かでいようとするとかいつづけようとするとかいったことは避けたほうがよくて、歪さに耐えられなくなってどっかで破綻する可能性があるからなんだけど、それだってしんどさのなかでわかってくることで、わかりながら軌道修正するようなことで、結局やってみるしかない。
自分の望みがなんなのか、自分でだってわからなくて蹴躓くとか余裕であるものなので、わかるまで突きつめていきたい。


あと、自分のありたい自分でしかいられないのだとしても、魅力的ならあるいは手に入る何かもあるのかもしれないね、くらいの気持ちでええんかもしれん。
富とか名声とか? 知らんけど。




この茶番、終盤の「あへばぇっ」以降観るたびわらってしまう




おんなじところでおんなじことやっておんなじこと言いつづけてってんじゃなければ人間変化はするもので、たとえばこうした場所でなにか書く、喋ってみることでその瞬間の自分を切りとることはできても別の瞬間の自分は存在しないわけで、だからもしかしたらなにか昨日とはちがったものが見られるかもしれないという期待を持ちもする、持つことができる。


自己への期待も他者への期待も成長であるとか進歩であるとか成熟であるとか表現はさまざまあるけど総じていつかの誰かじゃない誰か、、、、、、、、、、、、への期待で、まだ見ぬあなた、知らない私、とかいったものへの期待なのであって、過去の言動に執着して現在を無視するとか延延蒸し返しつづけるような無様な生きかたはしたくない。



最近ワインを飲みはじめた。
一度開けると数日で味が落ちる(数日置くことでよりおいしくなるものもあるらしいが)とのことで、ならばと買ったのがバキュバン(vacu vin)である。


瓶のなかの空気を抜くことで酸化を抑えるらしい。
といっても完全に防ぐことができるわけではなく、ある程度マシになるといった感じっぽい。


比較していないのでどのくらい変化に差がでるのかわからないが、わざわざ不味くなるまで待つ必要もないと早速使っている。



田毎の月 たごとのつき
 長野県千曲ちくま市の冠着山かむりきやま姨捨山おばすてやま)の斜面にある棚田に映る月。人が動くにつれて、田毎に映っている月も次々に移動して行く光景。

  帰る雁田毎の月のくもる夜に 蕪村

宇田川眞人編著『雪月花のことば辞典』p.264-265

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