読む速度の四分の三が遺伝で決まるということで.

より短い時間でより多く読書するとなると、種種様様、厖大な文を浴びることで言葉そのものに馴染んでしまうか、でなければ効率的な手段を採用し、無駄なくあたってゆく必要がある


スキミング(拾い読み)は僕もやる
表紙や目次、あるならば帯など、事前に概要を掴んでおくことで求める情報の有無や書かれているであろう箇所を把握し、余計な処理を避ける読みかただ(ったような気がする


ただ、部分的に読むということはつまりそこ以外を読まないということで、慣れないうちは抵抗を感じるかもしれないがいや俺自身いまでも感じるし感じるということは慣れていないということなのだがしかし割りきらなくてはならないときもある
人生は有限なのだ

遺伝といえば執筆能力の八割以上が遺伝で決まるとかいう話もあって.

どうやって出た数字なんだろうかと思うんだけど、ただ感覚としてはわかるというか、読みやすくわかりやすく書く技術は技術だけあって習えるものだし習ってしまえばある程度どうにかなるじゃないですかそこでも個人差はあるでしょうがただそのさきというか、習ってどうにかなるレヴェルにおさまらない逸脱した領域で書かれたものにはほとんどお目にかからないので、言語に精通しさえすれば誰でも特異な文を作成可能になるわけではないらしい、とか、伝えるわかられるわかられたさわかられなくてはならなさが働きつづけるかぎりお手本以上のものにはならんのだろうな、そもそもなってどうするん、とかなんとか、知らんけど、そういう気持ちにもなっている、関係ないんだけど、俺には

発酵食品はよいものだが単品で食べつづけても意味がないらしい.

いくつかの種類を並行して摂取することで効果が発揮されるとのこと、僕は納豆はよく食べるキムチは最近食べるようになったヨーグルトは以前よく食べていたがご無沙汰なのでベリー類と一緒に買うつもりでいるチーズはそこそこ食べている、あとは? 味噌か、味噌もたまにだけど使っている他にもあるよねいろいろと、腸内環境やメンタル、肌の状態にも影響するそうで、しかも味もよいとなれば利用しない手はないじゃろう、私は元元健康志向というわけでもないのだが不健康でいたいとも思わないし加齢とともに鈍ってゆく身体機能をそういうものだと放置するつもりもないのでそういうつもりのない者の生きかたを選択することになる

遺伝でなにかしら決まるにせよ.

だからしようがないといった諦めかたはあまりにつまらない、というか実際のところそんな単純なものではないようにも思う、人間
環境であるとか状況であるとか経験だとか、さまざまな要因が私の状態に影響を与えつづけるし、どの瞬間も永遠ではなく変化がやむことはない


だいたい人事を尽くして天命を待つレヴェルに人事を尽くすこと自体至難なのである、執筆に関してだって、自力でどうこうできる範囲のどれほどをやってきましたかといわれると俺だって遊んでみたりごろごろしてみたりといった行為を一秒だってしなかったわけじゃない、というか過去にはだいぶ遊んだしごろごろしてきたしどうしようもなく無為の徒であったわけであり、そんな人間が遺伝で能力が伸びませんがっかりなんて言う資格を有するとはまったく思わないわけで、かといって遺伝でこうなれましたありがとう遺伝もちがうだろうと思うわけで、ちょっとなんかそういうところからだよなという感じがする、そんな単純じゃない


たとえばうまくやることに価値があると、他と比して抜きんでる、より多くを有する、勝利する等競いあってなんらかの成果なり結果をだすことだしつづけることに意味や意義があるといった生きかたを採用する場合でも、今は純粋によく出来ることよりも工夫の有無やその質のほうが重視される


要は頭を使えという話で、力押しでとにかくやればよい黙って手を動かせといったことにはならない、いやそういう人間もいまだにいるのだけれども興味がないのでどうでもいいな、とにかく才能が無い僕は駄目だではなく自分のちからを引きだすことは大事だけど同時にいま持っているものを最大限活かすにはなにをどうすればよいのかを考えることになるしそのほうが感情だってバグらないたぶん


理想であるとか避けたい現実であるとかどうなりたいとかなにがしたいとかこうはなりたくないとかなんにもなりたくないとかやりたくないとか生きていればいろいろあるじゃない、あるなかで、でも遺伝がさあ、とかうるせえじゃないですか、うるせえよ、なのでうるせえなりの生きかたになる、俺はなってる


ちなみに文章力について書き足しておくと、特異な文体であるとか異質な表現であるとかができる、可能であるとして、でもそれって特異な文体であるとか異質な表現が可能であるという意味しかないんですよね、そのこと自体に価値なんかないしあるとしても与えるのは俺自身ではない


俺はこんなふうに書ける他の奴にはできない書きかたができるだから俺はすごい、やばい、というところでへらへらやっていられたら人生たのしそうだけれどもそんなことでたのしくなってしまう人生自体どうかと思うしそもそもここには他人がいないので、どこにもいないので、出来ない出来ていない出来てこなかった自分自身と死ぬまでやりあうことしかできないのでわたしの問題わたしの課題だからなこれは、だからおなじようにそういう領域で単身やっている誰かの仕事をこそ見たいし気になるんだと思う、そうでなさならそこらじゅうで見られます


実際のところ、よい文章圧のある文章が書きたきゃ習えばいいだけなので、人から褒められたりちゃんと伝わったり喜ばせたり緊張させたり興奮させたりできるようにはなれるので、何を書いているのかわかりません言いたいことがわかりませんよくわかりませんどうでもいい、は避けられるものなので、それはほんとうにやっておいて損は無いし滑りがよくなるというか生活全般の、なにを思うにも考えるにも助けになるわけだしね、ただ俺にも知人に数字を見ているだけで吐き気がしてしまう人がいたりするので、そもそも無理、がどうしようもなくある世の中には、限界もある、しかしそうでなければ二割弱も自力でどうにかできるわけですから執筆に関しては、まあやるよね、と思った

余裕があって他人に噛みつくのか逃避したい現実があって他人に噛みつくのか

自分の仕事をきっちり片づけてじゃあ時間もあることだし暇つぶしにというのならばまあそうもなるかもな知らんけどって思えるんだけどあとエンタメとしてとか得るもの与えるもの諸諸計算があってやっているのであればまあまあまあ、なんだけど、俺もたまに切れ散らかしていや切れ散らかしてはいないがまあなにかしら書いているんだけど、目の前にある問題から逃れるためだとか不安や上手くいっていない人生から目をそらすために他者の言動をあげつらうってのはやめたほうが身のためで、いわゆるアピールにもなるしとにかく使える、、、しそれでなくともシンプルに書かずにはいられないし言わずにはいられないしでわかるんだけど、ただひどく後悔する可能性があるので生きかたとして、おそらく老いるほどにやってきたことの不毛さとか悲惨さが来る、人生の残り時間を意識しはじめたあたりで、頭ではわかっているじゃない現状みんないつかは死ぬし死ぬしかないって、でも実感というか、そこにあるものとしての「私の死」を感じとらないとわからないこともあって、もちろんわからないうちにしかできないこともあるしわかればよいというものでもないのだろうけれどもわかったときの反動というか、結構なものだと思うので、なのでどうしてもそうでなければならないそうしなければならない理由が無いかぎり自分のことに集中したほうがいいんじゃないって僕は書きますね、知ったことじゃないんだけどね

与えられた課題をこなして何かやったつもりになっているうちは現実とも自分自身とも向きあえていない

学業にせよ生業にせよ
私が考え私が工夫し私が実行するほかない状態、そういう場でしか私の今を感じとることはできないし、引かれた線の上で何をいったところでその外をゆく者には届かない、ということをわかっているかどうかで一日の過ごしかたが変わるんかもしれん
いや本来届くものではないんだけど、その外にいるはずの人間がなぜか彼らの言葉に耳を貸してしまって波立つという現状もあるように思われて、いいか別にそれは本人の問題だし


安全地帯で囀っていたって無様なだけじゃないですか、実際
何かをつくる、つくらないではいられないってのも、そういうところにつながっているような気がしますね
言われたことをこなしてどうにかなる時間、できるかどうか、決められたとおりできたかできなかったかが問題になる時間だけで一日が構成されてしまうとおかしくなってしまうところがあるので、偏向とか頑なさとかいったものもその手のある種のたやすさ、、、、、、、、から生まれたりするので

しなやかさのために.

多義性とか多様性とかいったものを意識するまでもないくらい馴染ませるのってものすごく難しいと思うんだけど自分自身に、僕にせよ誰にせよたやすく偏りうるので、だから知ろうと思えるし知りたいと思いつづけられるし事実じっとはしていないのだけれども、でもわかったふうなことを言いたくなるときもある、考えてしまうときがある、黙っていられないときがある


で、実際に特定の地点、ある視座からものを見て、そんであれはこうだよねこれはどうだよねってことを言ったり書いたりするんだけど、でもそうじゃない誰かや何かも世の中には無数にあって、あることだってわかっているはずで、関係無い興味が無いでは済まなかったりする、結果的に


経験のうるささって自分の思考の不自由さからでもわかるじゃないですか、あの時のあれがいまの自分のものの考え方に影響を与えている、とか、いまの俺がこうなのはあの時の経験があるからだ、とか、だからこうだしこうでなければならないし他のあり方などありえないみたいなね、相当に厄介で、やわらかさやしなやかさを身につけてゆかないとそこから動けなくなる


なので、俺はこういう経験をしたがそうじゃない人間もいるしここから見える景色だって違った場所からならまた別の姿をしている、を前提に、都合のいい答えや自分に酔うような歪さに固執することなく最適解をさぐりつづけるしかないし、そこに至る素材としての経験でしかないという理解をしている


そこにあるもの、自分が生きる社会とか他人とかって現にそこにあるぶん意識にのぼりやすいんだけど、かまけて自分を無視していたって今日がよいものになるわけではないし、必要以上に合わせてしまってもやっぱりまともな今にはなりえないわけで、自己を軸とし周囲を観察しながら心身の均衡をたもつ選択をすることになる


過剰さって思いこみとか決めつけとかいったものが作用して生じる印象があって、だからそこを踏みこえないとずっとつきまとわれてしんどいみたいなことになりかねない気がするんだよな

コメント

タイトルとURLをコピーしました