時間を使うなら自分自身と好きな人のために使えばいい.

雑記

「他は知らん」で問題ない
たとえば僕なんかここであれこれ思いつきを書いているわけですが、それを読んだ人間に嫌われるなんてこともやはり起こりうるわけです


じゃあそうした事態を避けるために時間を割いてああしようこうしようああでもないこうでもないなんてことを考えるのかというと、一秒も考えません、無駄なので
そんな暇があるなら自分と自分が大事にしている誰か、何かのために使います
突き詰めたい何かを突き詰めればいい


昔はそうでもなかったんですよ
八方美人といってもよかったんじゃないか
みんなに優しくみんなに等しくわけへだてなく接して気に入らん人間にも愛想笑いして俺はそれができる人間だ人当たりがいいんだなんて自認までしてたんじゃないですか愚かにも、なんの意味もなかった


立場やなにか、誰かを守るために最低限押さえる要素としての馴れ合いは場合によっては必要です
でもそれ以外に関しては割りきらないとただただ枷になりかねない
実際、わたしも古いつきあいは全部切りましたしね
本当に邪魔で、足を引っ張られるばかりでしたから


いやマジでな、あれが無ければもっともっと良い時間を過ごせていたんだよ
なので鬱陶しさとか不快感とかいったものをおぼえる関係はさっさと捨てたほうが身のためだと思うわ
他人に合わせた半端な現実より自分が生きたい現実とやりあうほうがはるかにたのしく生きられます、きっとね

人生からしょうもなさを一つひとつ取り除いてゆく.

生活のなかで感じる違和とかいらないなこれとかあるじゃないですか
物質であったり心のうちのなにかしらであったりするのですが、そういうものの一個一個、発生源とか原因とかいったものを確実に排除してゆくとだんだん生きやすくなってくるんですよね


ものの考え方ひとつズレているだけでも心身ってバグるもんで、まわりの異常さに引きずられておかしくなるとか俺もあったんだけど、実際まともらしくもっともらしくこれが正しいあれは間違いなんて明言している人間が実は無根拠だったり偏った情報に依拠していたりとかよくあって厄介で、だからそういうたぐいのなんらかと如何に関わらないかが鍵になってきます


結局身を守るためには自分にとって何が大切なのかをいつでも思い出せるようにしておく必要があるのかもしれません
大切だと思いたいものではなく、大切だと思わされているものでもなく、大切なものを、です
本を読む前に読む目的なんかを書きだして気が散るなどぼやけてきた際に見返すという読み方があるんだけど、人生にもそういうのってあったほうがいいかもしれんねって話

最近?の『ニニと神さま』を読みかえして「やっぱ天才だわ俺」となっている.

長時間作業における環境の重要性.

たとえば畳の部屋があるとして、床に座りっぱなしでずっと文章を書いていると血が滞りはじめるというかだんだんと嫌な感覚になってきて、あまり良くないわけです実際良くないんだけど


なので定期的に立って軽く身体を動かすなどするのですが、集中しているとそれも煩わしく感ぜられる
腰掛けるほうの椅子があるとまだマシなのですけれどもどちらにしろ同じ姿勢でいつづけるのはよろしくないようで、人によっては腰に来るだろうしね、畢竟立ち作業に移行することになる


僕は地面に座っての作業は最悪だなと感じていて、だから極力避けるようにしています
それなりの期間そうしてきての感想というか体感覚で嫌ということなんですけど、でも現時点で最適な環境が構築されているわけではなく、絵を描く際は座らざるを得ない
完全に対応できていないんですね


これは僕のやりたいことが増えたり変わったりするせいもあるんですけど、やはりしっかりとした椅子だとか立ってやるための机だとか、早い段階できちんと投資したほうが長期的に見て失うものが少なくて済むように思います
健康とか集中力とかさ

俺には必要のないものだが.

役に立つ人もいるかもしれない

自分の活動を限定する必要はない.

俺にはこれしかない、ではない
気になったのならなんであろうとはじめてゆくのがよい


「やったことのないこと」が自分にとってどのような存在となるか、やってみなければわからない
先行する者に倣うのもよいが、「彼らとおなじ」がつまらないのであれば外れてそれでもかまわない


むしろそうしたさきにこそ「私だけのたのしみ」が見つかるのかもしれない
私がどういう人間か、なんて私にだってわからないもので、はじめるまえからどうせこんなものだろうたいしたことないつまらないなどといった寝言を垂れ流している場合ではない


よく知りもしない物や行為、人物についてわかったふうなことを言う者もいるが、彼らは総じてわかっていないのかもしれない
そう、「かもしれない」


僕自身「かもしれない」「ように思う」などを多用するが、わかっていない以上自然とそうなるものであり、実のところわかろうとも思っていないのである
事象の大半に対して僕は真摯でない


といっても言語を用いた理解が要らないという話ではない
「頭でわかる」はおもしろい


ただ、感じる、というか、感覚や感情、存在全体で掴む気が無いだけだ
望むもの、求めるもののあるのだとしても、片手に数える程度だろうか


頭で拾えるわずかばかりの確かさと、厖大なわからなさのうえにしか僕は、もしかしたら僕たちは立つことができないのかもしれず、ともすれば立ててすらもいないのかもしれず、そのことをわからないでだからわかったふうな口をきくことができているのかもしれないということをいつでも心に留めておきたい
そうした「わからなさのわかり具合」が、最近よく書く気もするがしなやかさにつながってゆく気がする


「断定」は衝突を生む
狭窄と息苦しさを生む
脆さを印象する、、、、、、、


だから、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない、私はそうかもしれないが、あなたはそうではないかもしれない、ひょっとしたら誰ひとりそうじゃないのかもしれない、といった視座を捨てずにありたい

わらった.

それがほんとうに自分の望むものであるかどうかって.

思ってみたり考えてみたり言ってみたり書いてみたりしたときにわかる気がする
違和とか苛立ちとか不安とか焦りとか息苦しさとか寂しさとかいったものがまじりこむのだとしたら、ちょっと疑ってみたほうがよいのかもしれない


自分自身はもちろん、よい関係を築きたい誰かと共有すべきことがあるとしたら、自分の望みと望むことそのものに纏わる葛藤、怖さや緊張だったりするのじゃないか


察する力は銘銘持つかもしれない
だが限界があるし、畢竟見えるもの聞こえるものに依らざるを得ないのが実情で、だからこそ「私の望み」に相対し、「私の望みらしきもの」をたとえほんのすこしずつでも明らかにしてゆく必要を感ずる


「知ってほしい」は傲慢といえば傲慢だろう
しかし誰かの「知っていたい」と結びつくならば、それこそが得難い関係に至りうる鍵の役割を果たすようにも思うのだ

「自分にとって意味のあること」は自分にとって意味のあることであって他人は関係ない.

誰がなんと言おうと関係ない
己が己であるための領域(と思われるなんらか)に踏みこませてしまうといろいろなことがおかしくなって結果死ぬたぶん
文字通りにか、あるいは心身が死ぬ


知りえないことのさびしさへと通じうるが、そもそもの話、自分の心を守れもしないで他人の心を守ることなどできないのではないか


ということのわかるからこそつながりなかで慎重にもなるし尊重だってするのかもしれない
余裕が無ければ気遣うことすら難しくなるものだが、そうした際にも最良の着地点を探れたならばよい

過去も未来も現在を最大化するための素材で.

わたしがここにいま在る感じ、、、、、、を濃密に、より深化させるために使うものであって振りまわされて鈍らせるためのものではないように思う


呼吸にせよ衣服の肌に触れる感じにせよ風がゆきさる音にせよ、すこし逸らせばかんたんに輪廓を失うものでしかなく、しかしそうしたものこそが私たちのいまここ、、、、を結構するに欠かさざる諸要素であるのは確かで


途上に拾った様様を、僕らは飾って僕ららしきものを演じてゆくわけじゃないですか
なのにゆきつくさきさえわからない今日の終わりに悪くなかったなって思えないなんて嘘ですよ
そんなことのために振りかえる昨日なんか要りません

酒ッ.

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