連想力を極限まで伸ばしたいというかすべての基礎ではという気持ちでいる.

あるものから別のあるものを想起するって慣れるほどにスムースにできる感じがある、なのでそこから諸諸拡げてってまったく関わりのないものを結びつける方向にも強くなりたいもっと、という朝に僕はいまおります、おるわけなのだが朝の清清しさというのは替えがきかないとも考えており、清を「すが」と読むのなんかおもしろいなとも考えている、清は「さや」とも読む、さやに、などと使う、書くときは「せい」と入力している



 本に「冊」という単位はない。とりあえず、これを読書の原則の第一条とする。本は物質的に完結したふりをしているが、だまされるな。ぼくらが読みうるものはテクストだけであり、テクストとは一定の流れであり、流れからは泡が現れては消え、さまざまな夾雑物が沈んでゆく。本を読んで忘れるのはあたりまえなのだ。本とはいわばテクストの流れがぶつかる岩や石か砂か樹の枝や落ち葉や草の岸辺だ。流れは方向を変え、かすかに新たな成分を得る。問題なのはそのような複数のテクスチュアルな流れの合成であるきみ自身の生が、どんな反響を発し、どこにむかうかということにつきる。読むことと書くことと生きることはひとつ。それが読書の実用論だ。そしていつか満月の夜、不眠と焦燥に苦しむきみが本を読めないこと読んでも何も残らないことを嘆くはめになったら、このことばを思いだしてくれ。
 本は読めないものだから心配するな。

菅 啓次郎著『本は読めないものだから心配するな』p.14

『本は読めないものだから心配するな』、これはほんとうによい本で読んでいるととてもたのしい、著者が詩を書くこともあるのだろうが用いられる表現に度度「お」となれてそうした感覚もたいへんにありがたい、「お」とか「?」とかいったものの呼び起こされる文がわたしは好きなのである



僕は僕の作品の文は好きなんだけど作品以外で書く文はあんまりで読みかえすとこれはひどいと率直に思うなどすることがあり古い記事の整理などすることがありあらかた削っていまに至っているのである、変わってゆくのが当然で、考えていたことが考えていることとまるきりちがってゆくことも当然で、見ていたもの感じていたことの移ろうなか過程を残して見えるようにしておくことに意義を感じないのなら消したところで問題は無いしむしろ消して心置きなくいまを生きたほうがすっきりとする、そもそも再読にたえるものを書いたつもりもないのだ、思いつきであるとかそのときどきの問題意識であるとか書いた瞬間霧散するようなものもたくさんあった、だが書きおこすことでそうしたことを考えるひと、考えているひと、価値や意味を感じているひと、というふうに受けとられるものでもあって、そういうひとだと捉えられるものでもあって、しかし、そうだったことがある、の連続で人生はつづいてゆくし終わってゆきもするものなのだから、そうだったことがあるということがいまでもそうであるということと=でないのは大抵の人間がおそらくそうであるのだから、どこまでもそうであった幾時間かが存在する、幾分かが存在した、といったことでしかないのだから、いらない過去なら捨てちゃえば? 自分自身が忘れたとしても見ていた誰かは憶えてるかもしれない、けれども、でも過去が枷になってぼやけちゃういまとかいらんでしょう、そんなことになるくらいならさっぱりしてしまえばよいのでは、という話になるのである



『平家物語』を観るならこちらも、という気持ちでいる



雑誌は通読に向かない、ということを考えていた、文芸誌は特にそうかもしれない、一冊の本を最初から最後までというのはそのようにしてまで付きあいたいと思える対象であるからこそ苦も無くなしうる行為であってそうでもなければつづかない、読みとばし読みながしが発生する、した



過去最長?の雑談だが真新しいことは話していない、数学についてはひょっとしたらそうかもしれない、話すとしたら次回以降である

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