日日の切れはし:20200724

ゲーム

どうも、ゆきひらさぎりです
勉強たのしい
目的がないから余計に

MONKEY vol.21の『アメリカ・インディアンの口承詩』という記事を読んでいる

かぎりなく遠い
むかしから
じっと
おまえは休んでいる
走る小路のまんなかで
吹く風のまんなかで
おまえは休んでいる
鳥の糞を身体いっぱいにかぶって
足もとから草をぼうぼうと生やして
頭を鳥の棉毛で飾られて
おまえは休んでいる
吹く風のまんなかで
おまえは待っている
年老いた岩よ

『MONKEY』 vol.21 p.86「アメリカ・インディアンの口承詩」金関寿夫

空に流れる星々が わたしの髪

ほらあの地球の丸い縁が
わたしの髪を縛るのだ

『MONKEY』 vol.21 p.89「アメリカ・インディアンの口承詩」金関寿夫

詩はへだたることなく彼らの生活そのものとしての位置を占めていたらしい
宗教的、神話的裏付けを前提とした実用性、機能性を持った歌、物語の数々は、近代的個人的な表現手段としての詩作とは一線を画すようである

研究者からは日本の詩(ふるいやつ)との類似性も指摘されていたみたいなんだけど、アニミズム(凡霊説)的思考の土台となってかたちづくられた世界観であるならばそらそうだろうと

一口に言うならば、彼らの詩とは、自己と世界との同一化のヴィジョンの表現なのである。

『MONKEY』 vol.21 p.89「アメリカ・インディアンの口承詩」金関寿夫

自分が書くものを読むと、自己と世界(とか他者とか)との同一化を願いながらそれが叶わない個の云云といった印象を受けることがあって、それってもちろん語り手の視座によって変わるものなんだけれども意識してそうなったわけではないんだよね

正直なところ考えたことがない
本文中にもあるんだけど、俺自身は西欧的に自己を自己に敵対する・・・・・・・・・・環境の中の独立した実体・・・・・・・・・・・と見なしている・・・・・・・ところもあるし、そうでないところもある、アニミズム的な観点はずっと持ち続けているし、なんだけれども、なんかそんなふうに括りたくはないよねっていう、途端に退屈になるじゃん、そんな簡単なものなのって、そんな単純なものなんだって、息が詰まるよ

いろいろなもののまざりあってこのわたしというものができあがっているわけじゃない、で、それは今後も変化してゆくわけじゃない
インディアンの口承詩について知ることによってまたちがった書き方にだってなりうるし、いわゆる古文ね、日本のものをさらに読みこむことによって新たな方向性を見いだす可能性だってあるんだし、漢詩かもしれないし現代詩かもしれないし諸諸の訳詩かもしれないし日日のなにげない言葉かもしれないしわかんないんだけどでもそうしたもののぐちゃっとなってどろどろになってそこから出てくる言葉がわたしやあたしやぼくの言葉になるわけで、彼らの見るものを聞くものを感じるものを落としこむうえでぼくの現時点での言葉の限界はただの枷でしかないわけで、その先をいつでも見ていなきゃ今いる場所からは動けないんですよ

でも超えるためにじゃあこれを取りこんでこういう変化をつけてとか惨めなことはしたくないんだよな、ああ、俺にとっては惨めだって話ね、他人がやっていてもまったくそんなふうには思わない

とにかくそれとわかってやりたくないの、自覚的にはできない
他人がなにを考えてどうしようが関係ないし好きにすればいいんだけど俺にとってはその手の試みはぜんぜんくだらないことで詩とかどうとかってことも関心ないしなんにも考えたくない

作品を通して言いたいことなんかひとつも無いし、実際、誰にもなんにも言ってこなかった
ただ書かれるものたちのことばがぼく自身に通じることがままあるってだけで、主張したければ自分の言葉でここにこうして書いているんですよ
ねこなのでそうなる

ただ、自己と世界との同一化ってのはなんかずっとついてまわりそうな感覚があるね、これからも


MONKEYの記事は金関寿夫著『魔法としての言葉 アメリカ・インディアンの口承詩』の一部を再録したものだそうです
1988年刊行の思潮社版と2000年刊行の平凡社ライブラリー版の両方を参照したとある

個の時代が終わってひさしいっていいますね

誰でも発信できるようになったし宣伝の手法も開示共有されているし創作物ひとつとったって全体のレヴェルがあがっているし、いやどうなんだろお手本なんかいくらでも転がっているんだから勉強研究熱心な創作者は自然スキルアップするやろうなって思うんだけどまあどうでもいいか、そんな感じで画一化平均化が加速している印象は随分まえからある、いや個性はもちろんそれぞれあって、でも個性のある人ってたくさんいるわけじゃない、いるってことがもうわかっちゃったじゃない、だって流れてくるんだからおもしろい人のおもしろいツイートが、TLに、そのせいで一人ひとりが薄まるというかなんというか、作品や発言のむこう側にいる発信者一人ひとりにそこまでリソース割けんよなっていう、受け手の限界が見えてきちゃったなって
だから好きがいっぱいある、増えるってこと自体はとても良いことだとは思うんだけど、それぞれとの付きあいはそこまで濃くならない、なりづらいのかもしれない、目移りだってしちゃうじゃない? きっと


うまい人が増えて、もちろんうまいだけでも支持される可能性はある
でもそれだけでは目立たない、目立てない、あるいはあっという間に消費される、忘れられる、創作うまい勢のなかのひとりにしかならない、なれない、といった現状であるとするならば、畢竟一人ひとりがそれ以外のところでの勝負も求められるようになってしまうわけで、でないと抜きんでるってことができないからね、売れたいとか支持されたいとかそんで生活したい食っていきたいって場合はまあ大変よな、と
そういうところも含めて楽しんで活動できるひとならいいけど制作に集中したい向きはすげえ消耗しそう


そうしたこともあって、いまは集落の時代といわれているんだけれどもたしかに閉じつつある感じはしてまして、たぶんその方がめいめいの負担は減るでしょうから自然な流れよなと思わなくもない
誰も好きこのんで馬の合わない人間と交流しないじゃないですか、なぜかそういう場に留まりつづけるひともいるけどよっぽど時間やお金に余裕があるか感情的になっているか依存か、惰性か、とにかくなにかしらの理由があるはずで
どうせなら居心地のいい、やりやすい者同士で小規模な群れを形成してそこでいろいろまわす方が平和じゃん、めっちゃ心地いいでしょ実際
だからいまオンラインサロンとかそういう(胡散くさいとかなんとか言われがちだけど)枠を設けてその中でお金もスキルもキャラクターもぐるんぐるんしちゃってメンバーみんなで快適に生きようぜってのはめっちゃわかるのよ
わざわざ外部の面倒な連中と絡む必要はないよねっていう


個を保ったままに群れる、普段は群れの一員なんだけど、なにかプロジェクトを動かすとなったら都度チームを組んでそれぞれの能力を発揮する、役割分担してね、それぞれが活躍できるみたいなつながりが理想なのかもしれないね(どうなんすかね)
埋もれてなんだかわからないまま歳月が過ぎちゃって結局なんも無かったなーみたいなかたちじゃなくて、自分のできることで自分も自分と関わるひとも良い感じになれるっていう、そういう場をつくっていけると強いのでしょう


ただ、自意識というか、肥大化しちゃって衝突みたいな事態も起こるんだけど創作がらみだと
俺が俺がってなる人もいるから、そこはある種の割りきりというか、ちゃんとわかったうえで参加してくれって話だろうな
そんでいつ辞めたってひとりになったっていいんだから、自分にあった場をさがしてさすらうorいっそつくっちゃうってのもありでしょう
あ、ぼくは当面はひとりです
快適すぎるので


というかあれな、構成を決めずに書いてるからかとっ散らかってるなぼくの文、いつものことだけど

『Sable』はぜったい遊びたいんだよなあ

Sable – E3 2018 Announcement Trailer

↑ は2018年のトレーラーで現在も開発中
2021年リリース予定だそう
最新のプレイ動画は ↓
ときめくわあ

A Glimpse of Sable (new gameplay footage)

この記事の誤字とかなんとかをいじりつつ考えていたんだけど

やはり自分に適した表現手法を見つけないと気分がのらないんだよね
たのしいことってずっと続けたいのよ、うまくいかなくてもうんざりしても、そんなん一時的なもので、たとえやめても戻ってくるの、気に入っていたら


もちろんつまんないこととかね、好きなつもりでいたけど実は合っていないこととかね、気付くのに遅れたりって珍しくないから、そうなると徒労感がえぐいんだけど、でもぜんぜん無駄じゃなくって、これは自分には合わないんだって発見があるからね、やるかどうか、あってるかどうかで迷ったり悩んだりもうしなくて済むわけじゃん、やったぜって、それはある
別に前向きなんじゃなくて、前も後ろも向いていたくない人間だから俺は、その事実が記憶として経験値として自分に残るよねってだけの話

ぼくが興味を持っているのは

ぼくが勉強することによって・・・・・・・・・・・・・できるようになること・・・・・・・・・・であって、勉強することによって・・・・・・・・・・誰もができるようになること・・・・・・・・・・・・・ではない

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