どうも、ゆきひらさぎりです
PS時代の名作『幻想水滸伝』(シリーズだと1、2のみ遊んだ)のクリエイターが集結して制作する新作RPG『百英雄伝』、キックスターターでの資金調達も成功したそうで、これは期待しちゃいますね
良いドット…
主人公含む108人の仲間を集めるのも楽しかったし1の主人公が2で仲間になるのも良かった
ちゃんと強いし

ぼくは競争には参加しない
ほかの人と競う理由が無いし、意義だって感じない
自他は比べてあたりまえではない
ぼくの仕事はそれじゃない
自分がどうなりたいか、どうしたいかということがはじめから、生まれたときからわかっていれば楽なのかもしれない
でも人間はそんなふうにはできていないし、ともすると一生わからない可能性だってある
与えられた枠におさまり、与えられた線に沿って自分自身すら疑えないまま暮らしていると余計だろう
では逸脱すればよいのか?
在るものから遠ざかればよいのか?
ちがうね
そんなの退屈、ばかげてる
としかぼくには言いようがない
退屈だし、ばかげている
じゃどうする?
経験するしかない
思考するしかない
結局は
ぼくらはぼくらを総動員して世界を体感し、世界について知り、世界について、自分自身について考えなくてはならない
ネットを使って情勢に通ずるなんて話じゃない
いま生きる此処を完全なかたちで享受するという話だ
いまを生きるぼくらの時間を完全なものにするための情報以外は実のところあまり重要じゃない
ぼくたちはそうしてめいめい自分にふさわしい道を見つける必要がある
自分にとって価値あるものがなんなのかを知る必要がある
もしかしたらもう実感しているかもしれないね
そうしないと息が詰まるって
窒息するんだって
なんだっていいよ
遊びほうけようと放浪しようと
好きにすればいい
大切なのは自分自身であること
世界はぼくが少年のころに考えていたほどくだらなくはなかった
でもくだらなくはないってだけで、とりたてておもしろくもなかった
ある時期までは
なぜか?
ぼく自身がおもしろいやつじゃなかったから
世界のおもしろさはぼくら自身のおもしろさに比例する
世界のくだらなさはぼくら自身のくだらなさに比例する
世界はぼくらに呼応する
完全に
不完全に
ぼくの仕事はこれじゃない
そうきみが思えるのなら、あるいは世界は、こたえてくれる
とくめいさんありがとねこじゃい
今日はよい日になるでしょう
おたがいに、きっと
ARCHIGRAM(アーキグラム)
1961-1970年あたりに活動したなんにも建てない建築家集団である
歩行する都市『walking city』や組みかえ可能なユニットで構成される『Plug-in City』など、実現を目的としない情報としての(Unbuiltな)建築を同人誌で発表しつづけた
制作されたヴィジュアルが秀逸でおもしろい

文芸を変質させるとしたらどのような『外部』と接続すべきだろうか
植物?
物質としての語を植え萌芽を待つことになるとか
消耗品としての語は植語によって増産され、人類はなんらかの手段で摂取する
経口? データだとちょっとつまらんな
カートリッジとか?
粉砕され粉末状に
使用頻度の高い語は安価で入手できる
低いものは高い、場合によっては生産されない
生産されない語は個人で採集する必要がある(山菜取りか?
殘数が底を尽いた語は記憶からうしなわれる
うしなわれた自覚はあるがそれがどのような語であるかまでは思いだせない
視覚情報として処理する間のみ想起されるが、目を離した瞬間忘れる
語は構成要素がすべて結びついているため意味だけがわからないとか形状だけがわからないといったことは起きえない
いかに言葉を省くか、思考を避けるか、用いずことを成すかが要諦となってくる
職業作家は企業から語が供給される
個人でも後援者がつく場合がある(クラウドファンディングもある
厖大な語を消費するため志望者が少ない?
レア語の多用、レア語のみで制作する作家もいる
……なんの話がしたかったんだっけ?
『甲鉄城のカバネリ 海門決戦』は最後の例のアレからEDの踊りへの流れが好きでそこだけ何度か観ている
該当箇所の切り抜き、YouTubeでも見つかるけど公式じゃないんだよな
ぼくはPrimeビデオで視聴しています
他でも観られるかもしれんね
わたしがわたしの世界の狭さに追いつめられるなんてことはざらにある
だから情報を手に入れることが重要なんだけど、集めるばかりで使わない使えないのではあまり意味がない(蒐集自体が目的ならば問題ない
媒体は関係ない
本でも服でも雑貨でも絵画でも食べ物でも家屋でも、すべては情報で、だから活用することができる
発信に落としこむか、手にした情報をもとになんらかの行動を起こすか
なんだっていい
ただ、コンテンツにまで昇華しても認知されるとは限らない
質だってすぐに高くなるわけではない
自分にとってのあたりまえ、日常にとけこんだものについてはその価値に気づかないことすらある
結果がでない
進歩が見えない
がっかりねこになるかもしれねこ
だから学ぶ必要がある
学習は大切だ
見える世界が変わるから
学ぶことをやめた人間はいま在る景色のなかでその後の生をおくることになる
外界からの働きかけ、強力な圧力でもなければ移りかわることはない
時とともに色あせるのみだ
ぼくはそんなのはごめんだと思う
狭い世界でわかったふうな顔をして生きていたくはない
ぼくは、そんなのはごめんだ
いまみたく情報で溢れかえった時代は自分にとって価値のあるものがなんなのか、しっかりと見分けてゆく必要がある
でないと無駄に消耗しかねない
判断の基準はかえりみることによって磨かれるように思う
Twitterで反応しちゃったけどあれが自分にどれほどの影響を与えたんだ?
記事読んでおもしろかったけどあれがこの先なんの役に立つんだ?
そうすると、ほとんど無意味じゃないか、なんて結論にたどりついたりする
もちろん使いこなせるのなら問題ない
すべては情報
然るべき加工をし、然るべき場に然るべき形で供給すれば、きちんと価値が生まれる
蒐集と一緒でそれ自体が目的ならそもそも問題にもならないしね
でもそうした思考、役に立つとか知らん、とか、いまが楽しければいいよ、とか、そうした生き方に振りきれないならやっぱりどこかで変わらなきゃならない
ぼく自身なんとなく生きていた時期があるから強くそう思う
だって、なんにも残らなかったからね、結果
からっぽだったからね
振りかえっても無いんだよ、自分の足跡が
なんにもしてこなかったから
冗談じゃないって
冗談じゃない
いま、そう思えるようになれただけましなんだと思う
中途半端に脱いでいま下半身丸出しなんだけど俺はとっとと風呂に入るべきですね?
落ち着いてから書けよブログなんかさあ……
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