どうも、ゆきひらさぎりです
引きつづき偏愛について思考を巡らせつつミクさん(ive『リトルアンドコールド』)を聴いている
ボカロは初音ミクの発売以降数年ほど触れていたように思う
といっても聴くだけで乗っかる感じはなく、当時は(いまもか?)ニコニコでの投稿が主だったように思うが動画も見なければコメントもしなかった(いまもしない)
例外があるとすれば音源を持っておらず動画サイトで再生するしかない楽曲くらいのもので、たとえばつい最近ようやく(?)YouTubeに投稿されたぼーかりおどPの『1/6 -out of the gravity-』あたりよく流していた(ライヴ音源は複数所有していたがワンコーラスだとかやっぱりオリジナルが聴きたいとかあるじゃない
要は音にしか関心が無かったんやねえ
ミクさんは自分でも買って数曲つくったんだけど公開しなかったしデータもとっくに消えている
DTM(DAW)も興味がつづかず使いこなすところまでいかないうちに埃をかぶってしまった
音楽もそうだけどボーカロイドだって当時からずっと好きでいつづけている人がたくさんいるだろうし、偏愛と呼ぶに相応しいレヴェルで生活にとけこんでいたりもするのだろう
良いなって思う
シンプルにそう思うね
Serph『Skylapse』を聴いている
主張加減が絶妙でBGMになりきらない感じが好き
ありきたりなことばつかいふるされたことばに息をふきこむとかそういうの意識したことないんだけど
まあそういうことやろうなって
誰でも知っているような語の羅列に特異性を与えられるかどうかってたぶん重要で、どうでもいいこと言って霧散してなんだったんだろうね、え、作品?あれが?なんて自分で思いたくない人間は自然とそうした志向を持つというか、知らんけど
曲芸的な語の配列ってたやすいし通常接続しない語同士をぶつけて異質感だすのも児戯
そのさきってどう見るのって思う、いや思ってないけど勝手にそうなるんじゃないのって思ってるけど、ねえ、いつまでもここにとどまらなければそこにいつづけなければ
誰にだってさわれない領域とか境界にたどりつけるのは俺はまだなにもできていないってほんとうに心の底から思えている連中だけだろうなどこまでも知らんけど
いや実際なにかできてるって思えてる時点でもうちょっと鈍ってるよねすべてにおいて
俺はまだなにもできていない、なにやってんだ
Glass Animals『Dreamland』を聴いている
4年ぶりのアルバムとか
前のはかなり再生した
Windser『July』を聴いている
デビュー間もないのか一曲しかないんだけど良いな
結局のところ
ことばを使うさいにことば以外を意識した時点でちがうんだよなって
それはもう絶対的に、絶対にちがう
締切やお金の心配が想像力を削ぐとかそういう話ではなく(いやそれもあるんだけど)だれのためにとかなんのためにとか考えた瞬間色気づくじゃない、演出が入る、脚色しようとする、俺の呼吸じゃなくなる深呼吸とか世にある呼吸法とかってのは断じて俺の呼吸ではない使ったところで俺のことばにはなりえない、だから嫌なんだろうなって思った
じゃないと書けない作品なんかもう
そうじゃない文章は別よ
自分のためでもなんのためにでも書けばいい、そうしてうつくしくもやさしくもなるでしょうから
たのしいね
でもどっかでねえそうした区別っつーのかなあらゆる境界線が消えるんだろうなって思ってるんだよ思いたいだけなんかもしれんけど、ことばはことばでことばいがいのなにものでもねえよ誰のことばも俺のことばもないってそんで終わり、終わりたいだけなのかもしれないんだけれどもさ、語ることもなくからっぽでありたいあれたならって余計なもんぜんぶ捨てちゃって重力も引力も知らないでただ書くんだよ、つけるかっこうもねえよ
MVのスロー他諸諸の演出で笑う
楽曲は好き
楽曲から入ってヴィデオを観ると大抵違和感ある説ある
というか普段MV観ないブログにはりつけるとき以外
4s4Kiの新しいアルバムが出るみたいなんだけどタイトルが『超怒猫仔/Hyper Angry Cat』でねこ~ってなった
ヤバい作家というと
作中なんにも起きておきていない状態であるにもかかわらず己の筆力のみをたよりに感情をめった刺しにしてくるようなイメージあるんだけど
登場人物がどうとかとかそんなんも関係なく…起伏があろうとなかろうとねじれがあろうとなかろうと関係なく延延とヤバさが累積されてゆくような?
一般的にはここってところで意図的に解像度をあげるじゃない、絵でも文でも、ここが大事なんです!って、で、あ、いま感じさせにきてるなって受け手もわかるものなんだけど、作品全体がそれっていう
つーか基本かそれが、基準ってのかな俺のなかでの、創作物の、この文を書きながらそうありたいと思ったのでたぶんそうなんだろう
でも、だからだねひとの小説をまともに読めなくなったのは
もって数分短ければ秒で閉じる
書き手の意思は関係なく感じなかったら終わり
例外はある
先日購入した森 幸太郎『楠』は最後までたのしんで読めた
じんわりとくる何か、わからないんだけれどもなにかがあってとても良かった
感想ではなく作品としてひとつ書けたらと思います(でもまだことばがでないねこ
これからどうしようか
ということを考えている
時間はおそらくそれほど無い
100年生きるとしても、もうあまり残されてはいない
なのでなにかを変える、変えたいと思うのならばいま動かなくてはならない
いつでもそうなのだ
いつでも等しくいましかないし、いま動けないのならなにがどうなることもありはしないのだ
この現実をどうにかする、どうにかしたい
いまのままではいられない
いや実際いままでの生き方を維持するのはそう難しいことでもないのだけれどもそれじゃ駄目なんだよな
なにもかもが嘘になってしまう
そんなのはだめで、ことばのむこうにあるものまでうそにするわけにはゆかない
それだけは避けたい
やるべきこともやりたいことも、俺にはいくらでもある
記事タイトルを変えてみる
あまりにもわからんので
わからんにしてもなんとなく何か書いてある感を出すことにした
人間以外が見る夢
といってもねことかとりとかじゃなく無機物の見る夢について
都市とか石とか機械とか、なんかわからんけどいろいろが見る夢について
いかにも幻想文学的というかそちら方面の印象をうけるのだけれども題材として魅力があるのはたしかで、そうしたところのものを基点に想像力をはたらかせることによってそうしたところのものができあがるのだろうなと思わなくもない
もちろん書き手の立脚地次第でどうとでも展開しうるのだけれども
題材選びは実際重要なのだ
とはいえ設定することである種の枷となりうるのも事実で、馴染みのない題材のために手がとまるということも起こりうる
しかし同時に推進力としての機能も有しており、書き手とうまく噛みあったならばたいへんによく働いてくれるのである
まあいいんだそれは
で、人間以外(無機物)が見る夢であるが、まず夢を見るには睡眠が必要であり、ねむるためには起きている必要がある
起きているためには生きていなくてはならず、生きているためにはまず生物でなくてはならない
だからたとえば都市が見る夢というのはそもそもが成立しないのだけれどもそんなことはどうでもいい
都市は夢を見たのである
都市とひとくちに言ってもその構成要素は無数にある
都市が夢を見るくらいであるからそれら一つひとつが意思くらい軽率に有していそうなものだがそんなことになったら収拾がつかなくなってしまい、書き手に都合が悪い
よって綜合としての一個の思念のようなものが都合よく存在することになる
いや錯雑とわからんままにすべてが終わってしまうのもそれはそれでおもしろいかもしれんがまとまりはなくなるだろう
よってまとめるである
俺は都市だ、と
都市は被造物である
人間かそれなりの何者かによって結構されるものである
そうしてはじめて息づくものであって、だから夢の内容物に造物主たる人間とかそれなりの何者かが含まれる可能性は極めて高い、いや作家によってはいぬとか草花も頻繁に登場するかもしれんがさしあたり人間かそれなりの何者かにしておく
現れる人間は都市の住人かもしれないし来訪者であるかもしれない
旅人? 交易商かもしれない、わからないが都市と接触した、あるいはこれからする者であろう
都市による未来視である、過去のほうが、それも遠い過去であるほど雰囲気が出るがそれはいい
ではいずれ接触する何者かは都市になにをもたらすのだろうか
破壊である
都市は滅亡を未来視する
しかし都市は都市であるがゆえに来る破滅のときをしずかに待ちつづけることしかできない
余談だが昔巨大ロボット型の都市を操縦して安住の地を目指すゲームを考えたことがある
遭遇する脅威(仮に敵ロボットとする)と交戦するたび住人が減ってゆく仕様で、全滅するまえにたどりつくことができればクリア、でなければゲームオーバーだった(荒野にたたずむ無人の都市型ロボットである
ロボット都市を運営する上でキーとなる人物も多数おり、欠ければ代わりがあてがわれるがほぼ役に立つことはない
マニュアル化は容易ではないのだ
よって人口が減るたびロボット都市の性能は低下してゆき、より苦戦を強いられるようになるのであるが、そんなことはどうでもいい、都市は夢を見る
都市は破壊の夢を見る
都市は夢のなかで都市としての死を体験する
読み手はその光景と、あるとするならば都市の情動というものを文面を通して夢想する
都市は夢を見る
見られた夢は読まれることによって継承され、ひょっとしたらあなたの夢にだってなりうるのだろう
あなたは夢を見る
それはいつか、都市であったものの残滓、かれの見た夢であったかもしれない
なんのこっちゃ
牡丹焚火(ぼたんたきび)
東北、須賀川牡丹園で行われる。五十年、八十年と樹齢を重ねた牡丹の木は高さ二~ニ・五メートルに達し、老化した枝は自然に枯れてくる。初冬のころが牡丹の節季に当るところから、供養の意をこめて、枯れた牡丹の木を園の一隅で焚くのである。夕闇の中に燃え立つ焔は、ときに紫色や緑青色となり、ほのかな香りが漂い、牡丹の精を思わせる。北原白秋は、おくられた牡丹の木に対して「須賀川の牡丹の木のめでたきを炉にくべよちふ雪降る夜半に」と詠んだ。まだ吉川英治は『宮本武蔵』の中で、牡丹焚火を引用している。牡丹焚火を季語として最初に用いた俳人は原石鼎で、二十句を遺しているが、季題として定着したのは野澤節子によって『新編俳句歳時記』(講談社版)に採択されてからである。
みちのくの闇をうしろに牡丹焚く 原 裕
天上のひたひたと昏れ牡丹焚く きくちつねこ
牡丹焚く枝を重ねし曇り空 椎橋清翠
牡丹榾焚きて老躯をあたたむる 鈴木綾園
『カラー図版 日本大歳時記 座右版』講談社 p.1324
ほた【榾】〔「ほだ」とも〕
①囲炉裏や竈でたく薪。掘り起こした木の根や樹木の切れはし。ほたぐい。ほたぎ。《榾煙顔をそむけて手で払ふ/池内友次郎》
②大きな材木。また、地面に倒れて朽ちた樹木。
よい夜であれば、と思う
よい朝にあれば、と
陽のあたたかにゆらめく今日をあってほしいと思っています
(冬ですが)こころから
いつかきっと、と
そう思っています
そのためにあれたなら、と
そのために
いつでも
コメント
毎日楽しみに読ませて(観させて)いただいています。
都市の夢…!すばらしいですね。
さぎりんの筆による都市の夢、ぼくも見てみたいです。というかそこへ「行ってみたい」です。連れてってください。
拙作お読みいただいたうえに、例外だなんて勿体ないおことばありがとうございます…
おかげで次作へむけて走る勇気を頂戴しました。
いつかさぎりんとなにか書けたらいいなという勝手な夢を育みながら、精進していきます。
これからも応援しています!
ありがとねこ!
どこまでもぼんやりとしたイメージではありますが、都市の夢の手がかりらしき存在を感じ取っているようにも思えます
いつかなんらかのかたちで昇華できるかもしれません
ことばへの意志とでも呼んだものでしょうか、滲むようにあふれるなにかによって引きよせられ、気づけば読了していました
次作もきっと手にとります
大きな作品を物するにはあまりにも時間が足りませんが、そうでなければどうにか…
わたしももっと書けるようになっておきます
ありがとうございました!