新しく知った言葉、気になった言葉について #1

どうも、ゆきひらさぎりです。
読んでいると知らない言葉、おもしろいなと思う言葉にぶちあたることがありまして、その都度辞書アプリに放りこんで調べたりメモを取ったりするのですが、使わないで忘れるものの大半だったり、なんとなくゆきすぎちゃって、ねえ、ちょっともったいないんじゃない……というわけでここに記す。
所見らしきものも、思いつけばあわせて。
本文中に解説のあるものは引用し、無いものはないなりに処理する。

風雅の誠

松尾芭蕉は、俳諧はいかいにとって大切なのは「風雅ふうがまこと」だと言っています。「風雅の誠」とは、簡単に言えば、対象と自分が一体化するということです。芭蕉は、松のことを句に詠むときは松に習いなさい、竹のことを詠むときは竹に習いなさい、と言いました。そして句ができたら、本当に自分がそれと一体化できているかどうか、舌の上で句を百回転がして確かめなさいとも言っています。そうやって「自我」をなくして自然と一体になることが、「誠をせめる」ことである、と。

安田 登『役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん』kindle版

一体化する。
なりきるのでも憑依する(される)のでもなく、それになる・・・・・
対象となって世界を見る、聞く、感じることで創出される言葉というものは確実にあって、書き手としての自分というものを考えたとき、そうしたものである、わたしでありぼくであり、あたし、俺であり、そうしたものの訳者であり、媒介であるふうだと感じています。
容易には到達しえない領域であるのやもしれませんが、だからこそ百回でも千回でも転がして確かめるということを実際にわたしもしているわけで、だからこそ極限にまで研ぎすまされた語や節に象られうる一瞬の見出されうるわけで、だからこそ試みる価値があると断言できるわけでありまして、じゃなきゃつまらないじゃないかと思うわけで、文芸、言葉をもちいた芸術を志向する以上そこは無視できない、というかその実現こそが醍醐味というか、そのように思う、というよりはそのようになる、ならざるをえない、えなかった。
文の書き方を習ってどうこうなる次元の話じゃないんですよ、お手本なんか存在しない。
読みやすい伝わりやすいわかりやすい文章なんてものはちょいと見渡せばいたるところに転がっています。
学習すれば身につくんです。
しかしそうでない言葉、わたしの言葉・・・・・・をこそ物したい文章家だっているわけで(いるよな?)、ぼくもそうなんだよ。
対象になる、きみになる、あなたになる、そうやって抉りとられたどこだかが、なにだかが、だれだかが、言語の限界をこえて読み手書き手を貫く、侵蝕する、してほしい、してくれたなら。
祈りのような感情の、ゆきかって、まじりあう、そうしたさきにあるものを捉えていたい、わかっていたい、そうありたいですね。

果分可説

「果分可説」とは、空海が『弁顕密二教論べんけんみつにきょうろん』のなかで、密教を、すべての顕教から区別する決定的な目じるしとして挙げている重要な思想である。「果分」とは、通俗的な説明では、仏さまがたの悟りの内実ということ。より哲学的なコトバで言えば、意識と存在の究極的絶対性の領域、絶対超越の次元である。コトバの表現能力との関連において、普通、仏教では、この次元での体験的事態を、「言語道断」とか「言盲慮絶ごんもうりょぜつ」とかいう。つまり、コトバの彼方、コトバを越えた世界、人間のコトバをもってしては叙述することも表現することもできない形而上的体験の世界である、ということだ。
このような顕教的言語観に反対して、空海は「果分可説」を説き、それを真言密教の標識とする。すなわち、コトバを絶対的に超えた(と、顕教が考える)事態を、(密教では)コトバで語ることができる、あるいは、そのような力をもったコトバが、密教的体験としては成立し得る、という。この見地からすれば、従って、「果分」という絶対意識・絶対存在の領域は、本来的に無言、沈黙の世界ではなくて、この領域にはこの領域なりの、つまり異次元の、コトバが働いている、あるいは働き得る、ということである。

井筒 俊彦『意味の深みへ 東洋哲学の水位』岩波文庫 p272-273

悟りの境地はコトバにならないと主張して止まぬ通説に対して、悟りの境地を言語化することを可能にする異次元のコトバの働きを、それは説く。コトバを超えた世界が、みずからコトバを語る、と言ってもいい。あるいはまた、コトバを超えた世界が、実は、それ自体、コトバなのである、とも。
注意すべきは、悟りの境地を言語化するといっても、人間が人為的に言語化するというのではないことだ。むしろ、悟りの世界のそのものの自己言語化のプロセスとしてのコトバを考えているのである。そしてそのプロセスが、また同時に存在世界現出のプロセスでもある、と。このようなレベルで、このような形で、コトバと存在とを根源的に同定する。それが真言密教的言語論の根本的な特徴である。

井筒 俊彦『意味の深みへ 東洋哲学の水位』岩波文庫 p273-274

空海? 名前は知ってる、程度の認識だったものが、やるじゃないの、に。
真言密教、空海を意味分節理論、『荘子』の「天籟てんらい」、イスラームの「文字神秘主義(または文字象徴主義)」、ユダヤ教のカッバーラー神秘主義などと絡めつつ論じてあるのですが、ちょっとおもしろいです。
引用したくなる箇所がたくさんある、のだけれども引用してしまうと前後との繋がりが断たれるのでことばに興味がある、ことばについて考えたい向きは本書を手に入れて読んでみるのがよいのではないでしょうか。解説もたのしい。
わたし自身は特に語るようなものを持ちあわせておらんのですがこうした文を読むと「だいたいあってる」みたいな感じにはなります。
10代の半ばごろ、脳が沸騰するんじゃないかといった程度に思考した時期があって、3日間くらいのことでしたが、そこで極点に達した、ゆきつくさきを見、そして引きかえした経験があるので(人間として生きるために逸脱しない越境しないあるいは全を志向しないという選択をした?どう書けばいいんだ)、悩む、ということがもう無いのですが、といっても無知であるがゆえに推しすすめようのない円環に転がりこむことがない、ということではないのですが、現実の問題のそのすべてをきれいに解決できるなんてことはきっとありませんしね、ないのですけれども、人生というものについて、捉えがたくはかりがたいなにものかについて漠然と、もやもやと、ぼんやりと抱く不安といったものはすでにありません。
生きて死ぬ、ということのなかにわたしのすべてはあって、言葉もです、もちろん、ぜんぶがあって、それでいいねってことなんですけど、自分のこの身でこの頭でたどりつかないとわからない感覚というものがまちがいなく存在しますから、ぼくは昔から枝葉末節に関心が無かったので最短距離をゆきましたがそれがよかったかなと、諸諸の学にひっかかってしまうとわりとわからんままに人生終わります。
直感で得たあれやこれやは何某さんらの著物にあたると言葉のかたちで確認できて、やっぱりそうなるよね、そうだよね、おなじこと考えてるな、という体験になって一時期楽しかったです。言語化し得ない当時にあってもがく、ころげまわった経験というのは案外大事なのかもしれない。
過去にもぼくには(作品で)語りたいことがないといったことを述べてきた気がしますが、語るためには地に足をつける必要があって、要は偏向、偏在が求められる、どこかのだれかである、わたしである、ということをあきらかにする、表明する、せざるを得ない状態に身を置くこととなって、してしまうことによって分断される、それ・・になってしまう、他とぶつかり、擦れあい、うるさくなってゆくのが気に入らないんだろうなと、退屈だな、と、なんも知らんなんもわからん、なんでもどうでもいいねこでいたいんでしょうね、曖昧で、だから対象になる、対象となってそこから見る世界を記述する、といったかたちになるのでしょうか。
単純に、それがいちばんむずかしくって好きって感じなんかなあ。わからんねこ。

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