新しく知った言葉、気になった言葉について #2

どうも、ゆきひらさぎりです。
知ってはいるがきちんと意味を調べていない語、忘れてしまった語というものがたくさんあって、書くなかでたしかめるようなことがよく起きる。
そうして用いてそれきり数年、ふたたび忘れて辞書を繰り、みたび、よたびと辞書を繰り、といった人生をおくってきた。
いや語がわかって調べられるのならかまわないのです。
困るのは意味だけわかって語がわからない場合。
そのさい主に類語の検索を利用するのだけれどもあまり使われない言葉であったり意味の微妙の違いのせいでなかなか見つからないことがあるんですね。思いだそうにも出てこない。出そうでどうにもでてこない。やめてくれ。
テクノロジーに解決可能な事象であってほしいなあ。

夏の果〔なつのはて〕

果という言葉には、愛惜のおもいがこめられていよう。厳しさもまた追慕のおもいを誘う。わけても立秋近くなると、たそがれを待たずに涼風が吹き過ぎる。鬱然たる大樹にも、いつか夏過ぎのそよぎ。まして避暑からの帰り支度、あるいは第二学期へのこころづもりを胸にいだく人達にとってはひとしお。自然は自然の姿へ、そして人は人の世界に再び戻る。

講談社『カラー図説 日本大歳時記 座右版』p.432-433

季の果て、境界の判然ととらえうるたぐいのものではないだろう。しかし夏秋のはざめに兆しとしての事象のまじりあってにぎわう時節を幾度も過ごした身であるためか、ぼんやりと、あ、変わったな、と語の裡に生成されぬでもない。直覚的なものでなにを示しようもないのだけれども、余人も感ずるところのあるのではなかろうか。知らんけど。

夏の暑さは嫌いじゃない。
しかしそいつは復路においてのことで、溽暑の往路に見舞われてのちの刻刻の快いとはいいがたく、いやいっそド不快なんだけどだからといってそこいらでぬぎねこになるわけにもいかんわけで仕方なく服を着て過ごしているのであるが、そのような状況下では思考のどこかしらにも溶融したようなぐんにゃり感があってあつかう言葉までもが糸遊染みてくる。

糸遊〔いとゆう〕

①晩秋や早春の頃、空中に蜘蛛の糸が浮遊する現象。あるかなきかのものにたとえられることが多い。遊糸。
「霞晴れみどりの空ものどけくてあるかなきかに遊ぶ糸遊 \ 和漢朗詠集」
②陽炎に同じ。
③〔漢語「遊糸」の訓読みによって生じた語ともいわれるが未詳。あるいは「糸木綿いとゆう」より出た語か〕透けて見える薄い布帛ふはく。〔「糸結」と書く〕

三省堂編修所『スーパー大辞林 3.0』

①の事象については一度きりだが見たことがある。
線形の視界をよこぎって流れるふうにうつくしくたゆとうておりましたが直進中だったこともあってそのまま突っ込んじゃったよね。
髪に糸がついたとき手で払うと思うんだけど感触だけだとしっかり取れているかどうかいまいちわからんくない?
くも、外れたどこかで暮らしてくれているぶんには平和ですけどいきなり出てこられるとちょっと動きとまっちゃう。


②については ↓ で。
③、布のイメージが無かったのでちょっと感心した。
だって糸遊だぜ?
糸を紡いでつくるんだから糸の文字を使うのはわかるんだけど遊だぜ?
糸と遊とを組みあわせた語が布をあらわす言葉として扱われるのめっちゃよくない?
糸結表記もすばらしい。こっちはなんつーかそのままだけど。

陽炎〔かげろう〕

雨降りのあとなど、水蒸気が地面から蒸発して上昇していくとき、空気がかなりかきみだされ、それを通して遠くの物体が浮動して見える現象である。春の日ざしの増大とともにこの種の現象が現れる。ちらちらと炎のように見えるので、陽炎燃ゆると言う。古くは「かぎろひ」と言い、ちらちら揺れながら光るものすべてに言ったようで、水蒸気のほかに、曙光にも、火炎にも、かげるの継続体にも、蜉蝣・蜻蛉のような薄翅のかがやく昆虫にも、蜘蛛の糸の先の小蜘蛛が気流に乗って空中を遠く移動するゴサマー(雪迎え)の現象にも言った。

講談社『カラー図説 日本大歳時記 座右版』p.151-152

見知った現象でもよくよく観察すると変なのってなるんだよね。
だってうにゃうにゃとゆれて見えるわけですよ空間が、変だぜ。
踏みこんだってなんにも起きないんだけど自分のからだは間違いなくうにゃうにゃのなかにあって確実に巻きこまれているわけ。
そんで変なのって思いながら通り抜けて最後振りかえってまだゆれてる変なのっつって去ってくんですけどそういうおもしろさってけっこうあるかもしれんね日常に埋もれちゃって気にも留めないんだけど。


これがこうなってこの事象につながるんですよってことが解明されていれば調べればわかるわけじゃない。もちろん自分で実験して確かめてもいいんだけど、でもそうしてわかってそんで完全に理解したことになるかっつったら違うのかもしれない。観測する体感するったってなにかしらの限界とか制限とか差異とかいったものがついてまわるだろうしなんだかんだふたしかな世界でわかったふうに生きているだけってところある。良くも悪くも。突き詰めないという選択によって手にはいる平穏みたいな。強い欲求も無く向かわない領域ってのがたくさん存在するじゃない? ただのひとつだってきわめがたい、一生かかってもどうにもならんかもしれんとか、何世代にも引き継がれるようなことがさ、だからおもしろいよね。

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