『ニニと神さま』#1

 星の降るならどんな夜だってうつくしいだなんて、言葉があれば夢見るように哥えるの。滅びの光はわたしを揺らして蒼く、壊劫のほつれて淵からこぼれた焔みたいだなんて、そんなふうに。


 世界が終わりますね。もう、さよならですね。ばかみたい、あっけないですね。硝子のむこうの誰かは言って、笑うように泣いた。
 理が瓦解する。
 冗談みたいなきざしの明らかになった後、みんなわあわあさんざめいて、いろいろなものが、ことが停滞して、弛緩して、死んでいった。
 どうせ終わるなら。そんな声がどこからも聞こえた。してきたことをやめる。しなかったことをやる。やってやる。外には出るな。出るな。出るな。絶対に。
 カフは毎日わたしにたずねた。どうする。どうする。
 わたしは毎日カフに答えた。どうにも。どうにも。
 しようがないのは本当で、だからもう数年、陽の光すら見なかった。けれど、今日はちがった。
「たすかるよ」
「なにが」
「カフが、ニニが、あのね、ゆめをみたの、ゆめのなかでカフとニニ、へんなところにいて──」
「どこ」
「ききなされ」
「は」
「そこで、おねがいしたの、かみさまに、カフも、ニニもころさないでって、そしたらいけた」
「ちょろいな」
「うむ、でもきまりがあって」
 カフがいつもの顔をする。確信があるって顔。間違いないって顔。自信たっぷりで、わがままで、偏屈な性格そのまんまの顔が、わたしは嫌いじゃない。
「ニニじゃなきゃだめなの、ニニがいうの、ちゃんと」
「わたしが」
「やったね、ニニはえらばれました、かみさまに、こううんにも」
「わあい。夢の話では」
「ゆめだけど、ほんとう、だから、いこうよ」
「変なところまで」
「そう、たぶん、かみさまのおうちまで」
 予報の端末に流れこんでひよひよと鳴る。
 もうじきすべての幕が降りるでしょう。ばいばいみんな。ばいばいあたし。嫌でもそうなる。思い残しのないように。
 ずいぶん永くだんまりだった外へ出ると、灰と夜とがそればかり横たわって在った。沙。石塊。瞬き。凪。
 静寂のなか、堵列する円柱群が淡めきながら穿空している。動くものひとつない廻廊を、カフがひょろひょろと歩きまかせてやがてわたしに手を振った。
「ニニ、ひっこしたっけ」
「一度も」
「これもうだめじゃない」
「うん」
「いいや、いこ」
「待って」
 いま出た生家が消えうせてどこにもなかった。
「さよなら、お布団」
「つらいね」
「辛い」
 歩きはじめたわたしたちの頭上、全天に散りばめられたとりどりの色のどれもが脈うつように輝いて、なかにはすくむほどに巨大な光もあった。此処はもとよりこんなふうだったろうか。どんなふうだったろうか。
「そんなふうだったよ」
 どこからひびくのだかまるでわからない、不明瞭な、けれどもよく通る声がした。神さまが喋ったらきっとこうだろうって感じの。
 カフが仰ぐ。
「だれじゃい」
「君たちがいま想像したとおりの存在」
「かみさまだ」
 カフとわたしは目をあわせ、今度は揃ってなかぞらを見あげた。
「あいにきてくれたの」
「ぼくは遍在する。何処にでも、何時だって」
「かみさまっぽい。やれやれながいたびじであった」
「秒で終わったけど」
「カフたちのおねがい、しってる?」
「勿論」
「かなえて」
「断る」
「さてはこいつかみさまじゃねえな」
「偽物かあ」
「本物さ」
「しょうこ」
「証明」
 世界のへし折れる、ような音がした。
 気づけばくるぶしまで水に浸かっていた。素足に粒子の一つひとつが纏わりついてうざうざとくすぐったい。
「くつ」
 カフが瞳いっぱいに涙をためてつぶやく。
「カフの、かえして、すきなやつ」
 ぱちゃぱちゃとじたたらを踏む。
「持ってる」
「あれ」
 見れば両の手に片方ずつ、しっかりと握りしめていた。
「ひ、ひだりてにみぎあし、みぎてにひだりあしだなんて」
 ふたたびじたたらを踏む。
「面白いね」
「褒められたよ、カフ」
「うむぅああぁぁやったぜええぇぇえ」
 やったのか。
 水の大地は水より透けて骨まで見えるようだった。薄い皮膜を隔てたむこうにいくつもの巨影がうごめいている。
 泳ぐみたいに過ぎるぶんには抵抗のまるでなく、わたしたちは春のおだやかな風のように漸進した。でも、だからかしらすぐに退屈して、つめたさのわずかばかりも感じさせずにわたしを濡らす縹色の花蜜の匂いだったらよかったのに、なんて考えはじめるわたしだった。
「かみさま、まだいるの」
「いるよ」
「ごしゅみは」
「瞑想」
 カフがくすくす肩を揺らして、世界がまたへし折れた。得体の知れないくぐもった音の、内から頭蓋をぶったたいたようにどよむ。
「おええ」
「こらあ、やさしく」
「ごめん」
 絁めいた生成りの空に、起点──終点──の間引かれた橋らしきものの遠近に数えきれず架かって照りはえている。夢の風景みたいできれいだった。
「これって」
「現実だね」
 神さまが言うならそうなのだろう。それはそれとして、縁からのぞく影色をした影の、なんだかわからないもののたったひとつの例外もなくわたしたちを凝視していた。
「怖い」
「ニニはこれだから」
「むっ」
「微笑ましいね」
 避けがたくそそがれる視線の間断もなく持するのだ。わたしでなくともじんわりとでもやがては心が濁るだろう。沈んだ澱ごと掻きまわされて上澄みまでぬかるむ気分だった。
「嫌……いやだ」
「ん」
 カフが手をとって駆けだして、いつもはかわいたわたしの膚にほんのりと、おそらくは錯覚であるところのものの生起して、感覚とか感情とか解釈とかが波をうつようにわたしを、一般的には些細であろう事柄ばかりがそのくせひどく圧倒して、譬えるならば感冒に似た症状を局所的に引きおこしたのだけれど、ちっとも嫌じゃない、嫌なんかじゃなかった。
「かみさま、まっててね、おねがい、かなえてね」
「わかった」
 世界のまたへし折れる、瞬間、流体がわたしとカフだけを拾いあげてほかをかえりみなかった。
 稜線いっぱいに碧緑の敷かれて靄にかすむ。咫尺に双暉の肉薄して燃えさかる。光圧と熱風とにこんなかたちでさらされたなら、足元だってどうしたっておぼつかない。暗色の塵ほどもない塔頭に、わたしは堪らずしゃがみ込んだ。カフ。カフ。
「ふたごかな」
「平気なの?」
「よゆう」
 カフがわたしを引きおこす。ちいさなてだよ、けれどもそれでもかざすんだよ、だってカフはカフだから、ニニが、ニニだから、カフとニニだから、わたしの髪にまっしろな指をとおして、そう言って。
 ほっそりとしたきざはしの、塒を描いて浸る闇路となる。発散された熱にものらない悪感の、身の小康してなおもこごらず流露する。
「神さま野郎」
「ごめん」
「やっぱり夢じゃ」
「現実だよ」
 列らきゆらめく燈の到達点に脈動して浮きだすような彫花の紅壁をなぞると、肉の手ざわりとほのかなぬくもりとが疑いようもなくそこにあるとわかった。
「有機体」
「おはなしできる?」
「いいや」
 降りきった先の広間では、無数の格子が規則性のこれっぽっちもなく天地を縦貫していた。
「ニニ」
 ひっ摑んだ支点をぐるり、カフがさしまねく。
 きあきあはしゃいでくるくるまわれば、しゃがみこむのはやっぱりわたし。カフなんて平気な顔してぶら下がっているのに、もすこし丈夫に生まれればよかったのに。
「たんのうした」
「何より」
 世界のへし折れる。
 絵画の中に入りこんだなら、なんだってこんなふうに見えるのかもしれないなんて、ざらざらと筆のとおった跡のいやにくっきりと塗りこめられたなか考える。
「カフ、すっごい顔」
「あははは」
 おなかを抱えて指さして、今度はカフがしゃがみこむ。
「ニニ、かがみ、かがみ」
 隠しにこぶりのいつでも用意がある。まさぐりようやく取りだすも、ぶあぶあしていてなんにもわからなかった。
「つかえねえ」
「ぼくみたい」
「本当に」
 世界のへし折れる。
 ぶつかりあって隆起する地殻を、船と呼ぶには無骨にすぎる鉄塊の直上に眺めた。むせかえるかぎろいに、錆昏が屈曲されてゆく。たまさかの散光。音を喰う音がして、呼応するように微震が全野を打った。一切の昇華を経たわたしたちは、しらしらと遺された虛膜のひとつもどこにもいつにも失せはてて忘れられてゆくばかりだった。終焉のたおやかなひらめきのなか、カフが過ぎさった明けの日の聖母みたいに微笑む気がした。そうしてささやく。聴こえぬうちに。
 世界のへし折れる。
「なんて?」
「ひみつ」
 沙塵に白亜の聖堂の端厳として屹立する。耿然たる威容は夥垓に萌す一条の幻視を思わせた。
「いこ」
 カフがもう一度、わたしの手を引いて走り出す。幾度も振りかえって、わたしがそこにいるかどうか、確かめるみたいに。
「まって。息」
 胸を押さえて見上げると、技工の垂れの、まるで虹でも砕いて攪拌したみたいな、形容しがたい丹青の妙をたたえて聳立していた。色彩感覚の拡張されるどころか、回帰のさきに起端を釘付けたふうな心持ちがした。
 カフが腕を、わたしの腕ごとかかげると、つかむちからのほんの少しつよくなって、なんとなくそぞろになってわたしは、カフの横顔、おさない曲線でもってカフとカフ以外とを隔てる曖昧な境界を見やるのだった。
「かみさまんち、ここ?」
「いいや」
「ぽいのに」
 堂内ではいたるところで水煙が立ちのぼっていた。百花のごとく象られた異彩の極まりもなく変幻し、生滅する。
 カフが手を伸ばすと、瞬間、繰りかえされる永劫の一点に凝結して静止した。てらてらとつやめいて、際限なくあかく、見ればたちまちこぼれそうなあやうさだった。
「ニニ」
 たなごころの器のように、溓花をわたしの耳元へとはこぶ。
「ありがと」
「似合うね」
「ニニだもん」
 カフが目配せをして笑った。
 世界のへし折れる。
 飽和した音の、しかし整然と配列されて他になにもなかった。
「見えない」
「カフも」
 聴くを除いて身体感覚のまるで機能しない。けれどもなぜか、言葉のたしかに見えざる像へと結ばれて、心奥にまでも到達するのがわかった。くりかえされる反響に塗りかさねられた星の微睡みが、底極もなくどこまでもゆきわたり、未明に待たれる調律以前の夢境に放り込まれたみたいだった。なのに、けれど、だからだろうか、わからない、どうしてこんなにもうつくしい。
 世界のへし折れる。
「ないてるの」
 カフが双眸のほんのちょっぴり下にくちづけて、わたしを抱きしめた。カフの匂いは夜みたいだと思う。月の暮れないでいつまでも傍にいるみたいだと思う。
 傾斜して林立する樹の一つひとつがさきの聖堂ほどの差し渡しを誇った。多くが直線的に架空するなか、歪に伸びるものも散見される。うろを覗けば見たことのない群生ばかりがにぎわっていた。鳥語のはるかに鳴るものの、姿は知れなかった。
「たんけんだ」
「隊長、おなかが空きました」
「かみさま、ごはん」
「ないよ」
「んじゃ、たんさくだ」
 果実の幾ばくかでもあれば紛らわすことができるだろう。しかしそもそも安全性の担保された植物など存在するのだろうか。枝をつたって幹から幹へ。幅広の深緑が芳香をはなって繁茂している。
「これ」
 橙色したこぶし大の扁球の房となってカフの直上に生っていた。止める間もなくかぶりついて銜むと、みるみるうちに笑みばかりになってわたしを手招きする。すこしく怯むもかじってしまえばそれまでだ。空腹も手伝ってか、視覚についで味覚の概史までもが更新され、窓紗の一枚はがれ落ちる心持ちがした。果肉に蜜の満ち満ちて、ひと噛みごとに口内の隅隅までゆきわたる。呑みこむのが惜しいほどだった。知らず微笑む。カフとおんなじに。
 世界のへし折れる。
 読みおえた書物をどうするかという質問に、処分するといった返答を寄越す知己の結構な割合でいて、それでなんとなく気持ちの沈むようになった日を思いだした、くらいには本の墓場めいた境域だった。
「図書館っ」
「ちょっとういた、ニニ」
「好きっ」
「だろうね」
 張りだした石の円骸に、極大規模の書架が立ちならぶ。如何なる機構によるものか、音ひとつ波ひとつたてることなく移動する幾枚かが見受けられた。恒星寥廓に燦爛して雲も月もなく、天幕の不明に澄んでどう見たって宇宙なのに呼吸のいつもとかわらない。身の沈むわけでも軽むわけでもない。いや、いいや、いいんですなんだって、もう、もう、すべてをわたしに閉じこめてこの身の頽れるまで眺め暮らしたいくらいだった。
「ぼうえんきょう!」
 カフが駆けだす。見送りわたしも駆けつける。本の元に。本だ、本、ほ、
「読めないっ」
 言語っ知らない言語っしかないっ。
 棚から棚へ、梯子から梯子へ、右往左往とはこのことをいうのだな、などと膝から崩れおちつつわたしは考えた。
「神!」
「ごめん」
 読めはしない。読めはしないが。
 見繕った巨躯を抱き、そこはかとなく薫る歴史の埃ごと肺腑へと引きいれる。書の一巻のそれぞれに、生まれて爾来の時間と空間との記憶が宿るとわたしは信じていた。いつか手にした者たちの一片、霊的な、魂だとかそういったものが宿ると信じていた。だからこそ、ああ、こんなにも、狂おしいほどに。
「ニニ、ニニ」
 あまりの重さによろめきながらも呼ぶ声頼みにゆきつくと、カフがぴょんぴょこわたしを出迎えた。
「すごいよ!」
 至近に大気のうねり綰ねて黄褐色の渦を形成していた。わたしという個に包摂されえぬ疎外の極点、受肉を拒む絶対的他者としての象形、畏怖の否も応もなくうちにわだかまってゆく。覚えず逸らせどいつよりかすめる長空は、原初にひそめくものたちを、千古不易の理法に統御して極まりもなく、繊細に、しかしつまびらかに天上の調べを湑ませるのだった。
「神さまよりすごい」
「でしょ!」
 世界のへし折れる。
 金属製の宝石箱がひとつきり、部屋の中にあった。窓も扉もなく、判然としない波のような声だけがどこよりか伝播する。
「えい」
 妙飾の小方形はあっさりと、他愛なく開いた。石のふたつ、光沢のある白と、ない黒。カフが黒を手にとった。
「カフの」
「知ってる」
 白い石をつまみあげると、俄かに十方の吹きぬけて、もともとあった空漠が現今に還ったふうだった。よるべなく浮遊するわたしたちをよそに、不羈の螺旋が天体群を呑みこんでゆく。揺籃に睡る有限は無限に織りこまれた撚り糸なのだと、朝と、昼と、まじりあった夜とがわたしの裡を彩なして、やがて消失した。調和だけが残されてきれいだった。
 世界のへし折れる。
 光暈が歪曲し、四季折折の花のように文様の咲き撓って席巻してゆく。千切られあげる淡音の喚きとなってわたしたちをうち、灼きつけられて極黒のほろほろと落剥する。すべての終わりのこんななら、なにもかも何度だって滅びればいい。
 世界のへし折れる。
 門をくぐる。ひとつ。ふたつ。みっつ。律動する死を統べるものの手のあなただって誰だって繋ぎとめずにいないというならば、断ち切る白刃のわたしに欲しかった。自由意志なんてもののどうせどこにだってありはしないのでしょう。あなたの生のどうしたって傀儡の夢のごときものなのでしょう。
 延延と坂路の九十九折となってゆく先のまるで知れないままにわたしとカフの彼方を見遥かす。白夜の地平は古い祈りに似ていた。わたしが捧げたことばのどれもが水屑となってひとつきりだって届いたりしなかった。届く先なんてどこにもありはしなかった。
「神さま」
「うん」
「大っ嫌い」
 世界のへし折れる。
 建造物群は奪いあうように島地に犇めき都市を形成していた。にも拘わらず空間のどこか分裂症を想起させたのは、圧壊された建材間の奇妙にひらけて感ぜられるせいかもしれなかった。時鐘の無機質な響きが微粒子間に連帯への意志を持続させてこそいたものの、情景は朧朧として確実に風化しつつあった。
「あれ」
 カフの指す先を、遠く影がなぞってゆく。星の記憶が移送されているのだとしたら、軌跡はどこへ繋がるのだろうか。
 世界のへし折れる。
 口切り咲きの地上の花は、大尾にそそける霙に水漬いて原初のひかりを散かす。くりかえし、くりかえし、わたしたちは生まれる。わたしは生まれて、生まれ変わって何度だってカフと手をつなぐ。何度だってわたしはわたしであり続ける。
 世界のへし折れる。
 半身を零せば水盤仄かにゆらゆらと、白房映じて星と眩瞑する。甘い甘い、甘いあなたのいついつよりも純化されてわたしの傍にいてほしい。熱に浮かされ浸る七瀬はすべてが薄弱で、だからほどけておぼめく指にも偽る真がある。
 小舟が境界線上を往く。わたしを見詰めるあなた、わたしみたいなあなたを、窓辺の下で、わたしは夢見ている。逝きし世の、もう誰もいない街なみばかりがあらわれては消えてゆく。遠い記憶にあそぶなら、片身替わりの器のわたしは満たされて、あなたと祈りのはじめの一節を、まだ誰も手折らなかった物語を思いだす。
 世界のへし折れる。
「かなしいね」
 カフは言って歩いてゆく。振りかえらないで。
 磨きぬかれた黒曜石の廊だった。両の縁には焔が配され、万物の縮景を素描している。外界では星の海が死と誕生とを上演し、再演し、きりもはてもなく無為へと帰結する。すべては過ぎさる。戯えるように。
 世界のへし折れる。
 稲穂はわたしたちを中心に漣立って輝いている。金色の微光が不可視の円となって遠近を漂う。隔てられた先の現然と判じながら不思議と認識の埒外にあった。往けども果てぬ往く道の、瀲灩として弥久を呈する。朽ちた杖のあわいに夾立して古儀の支配と分断とを想起させた。かつての盛衰の其処此処に、遺響に似てわたしをさらってゆく。誰とも知れぬ者たちが、いつかの頃には在ったのだと、それだけのことがわたしを揺さぶって、もういないあなたたちを見るわたしを揺さぶって、たったそれだけのことが、いつまでも。
「悲しいね」
 流落の足跡をたどるように道はつづいて、見かえることももうできない。つよく握ったカフの手は、やはり常よりあたたかだった。
 世界のへし折れる。
 雨滴は逆しまに陽を透かし、澪をきらきらとカフの潤む虹彩のようにかろやかに踊らせた。湖面をさざかす水の循環は連結され、不断にくりかえされるいくつもの自我を想起させる。ほとりに血と臓器とを内包して繁る影のいくつかの、目のこちらとかちあったが、いずれもものを言うでもなく佇むばかりだった。はじまりのころ、なんにも知らなかったわたしは、ひょっとしたらこの子たちみたくぼんやりと生きる為だけに生きて、そのことだってわからなかったのかもしれない。
 世界のへし折れる。
 六花が古界を装う空華に数えられて久しい。だからカフが伸びあがって身を抛るよりはやくわたしも駆けだして踏み切った。あまい白沙。
「つめたあ」
「本物だこれ」
 カフが掬って結んだ小球は、
「あ」
 と間もなくわたしをうって、離れればもう還らない結晶のひとつひとつが、よろずよおしなべ染めぬくように渺然と散じた。カフが笑う。わたしも笑って、いつまでだってこうしていたかった。
 世界のへし折れる。
 霊廟は確固たる理念を持って造化されたらしく、茜の糸の精妙なまぐわいのなかに喪失の象徴、慰霊の象徴としての表意文字がありありと見てとれた。
「よくもえる」
「物騒」
 内臓はその壁面に刺繍の余地なく施されて同じもののひとつとして無く、触れるぬくもりの先刻の肉とはまた違った生命のあり方を示していた。
「話せないよ」
「どっちでもよい」
 カフが拗ねたように頬をふくらせ、すぐに笑った。
 綻びもなく紡がれた繊維組織はもたれかかると衣服ごしにも波打ってどこか寝息を思わせた。しかし上壁から吊られた石膏細工はひとつの例外もなく物物しい姿をしており、それぞれが別個の感情をわたしに掻きたててやかましかった。中でも星の骨格標本めいた巨骸は畸型も相俟って強烈な怒りを呼び起こした。わたしは知らず涙を流していた。
 世界のへし折れる。
 ほろびた人人の記憶が並列した世界を創造するのだとしたら、わたしたちの旅に終わりなど無いのかもしれない。彼らは一様に夢を見る。そうでなければ生きられないから。そして、ともかくたくさんいる。たくさんいた。いたよね、星の数ほども。
 古城の元より大地に眠っていたのか、あるいは予言によって成ったのか知れない。ながらえた書物には魔法が宿るというが、以前と以後の境界線はどこにあるのだろう。臨界を打つその瞬間に憑き物みたいに内包されるのだとして、なきものをもあるものとして語り顕現する力を誰が齎すのだろうか。神話のなかの生物たちは、浮彫のままに具現した。
「のって」
 五足の獣は翼のひとひらで自在に飛ぶことができた。跨るカフの手を掴む。よじのぼってまわしたわたしの腕を、今度はしっかりと押さえた。
「わ」
「だいじょうぶ」
 雨月のにおいの像の鳴き響んで迷いなく風を裂いてゆく。
「方向、わかるの?」
「ゆめのとおりならこっち」
「合ってるね」
 眼下に洵赫の整然と並んで花篝の焚かれていた。地の紐解かれたようにぽっかりと、熟れた山茱萸に似て鮮やかだった。まあるい光のぼんやり照らす、さらさら細鳴る河川の懐に、影のおぼろにいくつもゆきかって幽かに滲んでいる。けれど、どんなに近付いても影は影でしかなかった。誰かの思い出みたいだった。わたしの、思い出みたいだった。
 世界のへし折れる。
 萍紅葉を踏みしめるたび、鳴砂めいて耳朶の振揺する。月晷遍く水底の、瞳を砕いて散らされたみたいだった。
 空舟は流れる。倒木の虚に衍溢する銀の滾滾と烟り、流れ出で、わたしを誘う。肺に満たせば狂う気がした。
 見渡すと白滝の音もなく固定されている。高低広狭てんでんばらばら、源だってわからない。落口に至ってはまばゆいばかりで波も風もたたなかった。瀑の百余りを擦過して、視界の過半を覆われる。落水の、天が下を両断してつづいた。
「ゆくしか」
 なんて、操船の術も何もなく直進しているのだから嫌だってどうだってそうなるのだけれど。カフの声の背中越しにもわたしは浮きたっていた。
「ようし」
 四肢を凝らせて時を待つも、すんなり入って蕩けた星辰を浴びた。夜上の彩華の透過して甘く、わたしたちをあまさず包みこむ。この身に認識し得る美醜の一端極北の、確実に浸食されて溶融した。こんなの、言葉なんかであらわせっこない。
「すごい」
 そうだね、すごいね、ほんとうに、カフ。
 世界のへし折れる。
 山河に蟒蛇めいた鎖の這いずって留まる気配もなく、触れるもののすべてを轟駆けに薙ぎ伏せ呑却していった。星の終わりのこんなだと、あなたが想像しないでいてくれたならよかった。
「かみさま」
「なに」
「たのしいの」
「ううん」
「じゃ、ゆるす」
 わたしは許さない。
 世界のへし折れる。
 秋去りの川のつめたくておいしい。わたしとカフと、ならんでごくごくとおいしい。
 見かけた八手の花の、なんとなくもじゃもじゃしたのが気に入って、すばやく摘んでカフの鼻先へと持っていった。
「へんむゅ」
 いつもとおなじ、おかしなくしゃみ、笑っちゃう。
 世界のへし折れる。
 木目のくっきりとうつくしい床板が、差す朱と混じりあって調和している。
「書斎かな」
「ほんまみれ」
 腰の高さほどの棚にいくつもの物語が収められている。眠れないでむずかるカフに読んで聞かせたものもあった。
「ニニ、ニニ」
 どうしたの、なんて訊ねない。腰を下ろせば膝枕のはじまるわけで、膝枕のはじまればカフがちいさな鳴くような声をだしてわたしを見詰めるわけで、そしたらわたし、あなたがわたしにしたみたいにあなたの髪にこの指をとおして、もうとっくに憶えてしまった遠い国に生まれた女の子のながいながい旅のお話をするのよ、あなたが眠るまで。だからほんの少しだけ、いまは、カフ、おやすみなさい。
 世界のへし折れる。
 伏した玩具の兵隊は、誰かの夢になぞられて、見知らぬ街の陽だまりで、子どもの唄を想い馳せ、そうしてやがて、立ちかえる。意思を放擲し、自律を却掃し、愛に帰従する。被造物の本義を恢復する(最初の声を思いだしていた。わたしを、とびっきりの笑顔で抱きしめた声を。忘れたくなかった。忘れられたくもなかった。けれどなにを望んだところでなにが叶うでもなくなにかを失うばかりだった。願うばかりだった。なのに意味を持たない言葉しかわたしには与えられていなかった。わたしはおまえたちとはちがった。それでもわたしはあの声が好きだった。あの声だけが、いまでも)。
 世界のへし折れる。
 月は誰からの贈り物ですか、星は誰からの贈り物ですか、あなたは、わたしは、意味を持ってここに在りますか、神さまに与えられましたか、それともただ在るのですか、はじめからただ在っただけのものですか、理由なんてそんなもの考えるまでもなく自明の先に生まれたものですか、カフ、カフ、怖いの、書いて、わたしの名を、その指先で、永遠の上に、カフ。
 世界のへし折れる。
 ゆやけの果ての果ての果て、ひとつっきりの岸辺の幾重にも、幾重にも、幾重にも打ち寄せてようやっとわたしは無窮の時というものの終ぞ語り得ぬことを悟ったのでした。返す波に引かれる手の、あなたに引かれるみたいに弓張を描く。
「カフは」
 あなたの見るわたしは、
「わたしのこと、好き?」
 どんなわたしなんだろう、
「すき」
 どんなかたちで、どんなにおいで、どんないろをして、どんなおとなんだろう。
「ニニだけがすき、いつもいまでも、いつまでだってすき、ぜったいにすき、だいすき、ニニ」
 愛しい今もいずれは終わる。それならいっそぜんぶが呪われてくれればよかった。
 世界のへし折れる。
 朽壊した焔に腰かけて、カフがなにかを待っている。
「おむかえ」
 摂理と摂理のあわいに文字の蠢動するように幾何模様を編んでいた。喰いやぶかれて辿りつけない紙の地図みたい、光彩のふわふわと行き場も意義も失く漂ってまぶしい。さよならはたくさん、那由他でだって足りないくらいしてきたけれど、そのどの一度だってこんなにうつくしくはなかった。
 世界のへし折れる。
 つやつやとした皓弦が糸車から伸びている。風をうけて回るいずれの部分品もひとつのこらずきめの細かな沙でできていた。
 絹らしき束の雲集して堆く、手を突きいれたカフの目が常にも増して輝く。
「みえる」
「え」
 思わず差しこむと、視覚がいまとは程遠いいまを捉えた。
 誰かのいつかの春だった。桃の薄端が宵闇に舞うなか、綾地の天に種種の模様が絡みあい、妙なる音律をゆきかわせていた。顫動しては流れ、結びついては解れ、ふたたび結んで、もいちど解れる。三際に既存するところのものを余すことなく、無き事事をも揺蕩わせてなよやかだった。
 世界のへし折れる。
 渡りそこねた言葉のいくつもが、うすぼけた意味のそのままにわたしに零れ落ちてくる。どんなに遠く隔たろうとも、たとえ断ち切られていようとも、いつかは触れる、そう信じられる、信じられた想いの、信じた心ごと砕け散ってわたしに零れ落ちてくる。あなたは、もういないよ。わたしはもう、どこにもいないんだよ。忘れてくれよ、忘れてしまえよ、こんなにも辛いなら、そんなにも苦しいのなら、何もかも無かったことにして、わたしなんかいなかったことにして、やさしい声に包まれた頃の記憶に佇んで、あなたのぬくもりに寄せる頬だってこんなにも濡れることのなかった場所に蹲って、ずっと眠っていてくれよ。帰らないあの人を待ってなんていないでさ、帰れないあの人をおぼえてなんていないでさ、あの人のことなんていつまでだって知らないままでさ、お願いだから。
 世界のへし折れる。
 不断に肉づけられた倍音のもつれが糸陽に爛れおち、彼岸の夕景を無造作かつ無作為に修繕してゆく。あおりをくった粗造りの岨峻が積みあげられたかるいしのように崩れては幾度となく屹立し、また破砕した(正確にはそうした鳴りばかりがやかましくわたしたちをふるわせて、しかし見るもののいまにもさきにも、ひょっとするとこのさきまでも変わらないで存立してあるようで、どうにも本当のそれらひとひらのうちに孕みうるとは考えられなかった)。
 駆けだしたわたしたちのすぐうしろから、ありもしない足場の削がれる憑空が焚きしめられてゆく。宵闇に濃密な虛語の不可逆に拡散され、裂け咲くような軌跡を描いた。
「ニニ」
 走る、跳ぶ、走るわたしたちの眼前に、不随意に縮合された廃都のいちどきに凝固され、しぜん進入する。
 まだ誰もおかしくなんてならなかった頃、一度ならず訪れた界と酷似していたが、それらしいばかりで符合のひとつも見出せなかった。
 泡めく外壁を突っ切ると、全身から洗い粉の匂いがした。薄い膜が張られたように目の前がかすみ、選びちがえた道を誰かの代わりに歩くみたいな気がした。底融けた深淵が、眼窩の如く石畳にいくつも覗いていた。
 装飾こそ妙美の一種の到達点を示すものの、建築物のいずれもが紙切れのように奥行きを持たず、そびえたつ尖塔群に至っては今にも拗れそうだった。圧迫感に身を寄せあいながら、わたしたちは路地を進んだ。
 古木から彫りだされた書肆が、どこともつかぬ片隅に眠るように根を張っていた。年輪の、嵩んだ歴史みたいにうるさくって少しも黙らない。だからたぶん、カフよりお喋りなこの子は、濾過された水みたくわたしにしみいって堰を成し、言葉の奔流の無限の源となるのだろう。伸ばした指先に、古反故の束が傅いた。
 世界のへし折れる。
 埋もれた綴りがやまない雨ほどもある。語られることはもはやなく、不壊の睡りに花野をおもう、おもいばかりがつのってゆく。
「神さま、憶えてる?」
「何を」
「最初のわたしを」
 あなたは答えない。
 なんだって、だれだって、語られなければ消えさって、見られたさきにも見えなくなって、あとにもいつにも、ときの間だっていなくなる。それだけのことなんだよ。
 世界のへし折れる。
 乳白色の空に水面の澄みわたる崖となってわたしたちを映しだしていた。前髪をいじりはじめたカフが、漣越しにわたしに微笑みかける。
「おかばんほしい」
 わたしたちの寝台の下、大きな旅嚢がいつでものぞいていた。カフには重く、持ちだせばかならず両手で運んでいたのだけれど、かえって様になってかわいらしかった、あの、使い古された……赤茶けて……わたしたち、旅をしているのね。いつから? さあ、知らない。ついさっきはじめたばかりという気もするし、もうずっと続いている気もするの。どうして? さあ、わからない。なんでもいいよ、なんでもいい、わたしはカフといられれば、誰がどうなろうと知ったことじゃない。知りたくもないんだ、絶対に。
 世界のへし折れる。
 不確かだったものの全貌が、ふとした折に完全なかたちを持ってあらわれる。順を追って明らかになるのではなく、霧の一息に吹かれるようにはらと晴れわたり、心の描きなおされて何もかもが昨日と違って見える、そういうことが幾度もあって、けれどもだから本質を掴みうるということでもないようで、結局はある物を多方から眺めてその都度ささやかな発見をしているだけらしかった。いじらしかった。
 世界のへし折れる。
 岬から水涯てを眺めていると身の浮くようになって、足もとを見ればもう随分と距離がある。洋上を漂う棺のいずれもが離ればなれの星星みたいに明滅し、波の律動をなまめかしく伝えた。
「からっぽだったらいい」
 カフは恐れる。他者の死を。だからわたしは遠ざける。あなたを。あなたという生を。
 世界のへし折れる。
 夜にはじめて触れた夜、指さきの燃えるようになって止むこともなく泣いた夜、劫、劫、劫、劫、なんて祈る間も無く常磐堅磐の飄落する自我に端縫いされてぼやけつきた夜に、結実した紅玉はわたしのうちを拍動し、虚構の神神で満たした。取返しなんてもうつかない。積もった日月の祓いようもなく心性をかきこぼつ。窒息したって削り花なら構わないって、そういうことなんだってさ。
 世界のへし折れる。
 草茫を疾駆する不定形の群れに追随して響きわたる轟音は、光と混じりあえば円環的反復を破断する。しかし夜が終わらず照る月も無い今、最期を眺めたあの瞬間すらも彼方にあってわたしは捉えない。
「鳥籠は開かない」
 本当にそうなの、神さま。
 世界のへし折れる。
 降りそそぐ音の可視化されて煙雨みたいにもわもわと喧しい。地表を汚してきれいだねってカフに言われたかった。
 世界のへし折れる。
 緋色の革の張られた椅子が街中に──街、と形容するほかない光景であるにも拘わらず構成するものの一つとして画然とせず、まるで崩滅後に凝集したがらくた部屋の様相であった──散乱して──粉粉でもとの姿のまるで見当もつかないはずのものがもっとも鮮明にもとの姿をわたしの内に象形した──かえって麗麗しく配されたふうな印象を与える。どの断片だって一寸たりとも動かせない、神聖な領域であるようで、だからカフが手近にあった完全な一脚に凭れかかって暢気に欠伸をはじめた時は、
「はっあっ」
 と素っ頓狂な声が出た。
 時々、自分の考えることが自分の考えることだとどうしても思えないことがあって。ありませんか。あるでしょう。
「神さまは?」
「無いね」
 世界のへし折れる。
 増殖する歯車と玄樹とが城塞を築きつつあった。側面からは繰りぬかれた巨枝が突出し、鞴のように排気している。波紋の碧宙に拡がっては打ち消しあって、結果としてかすかな風を織りむすんでわたしたちを撫でつけた。
 挽き臼めいてごうごうと回転する重塔は、朽ちた息吹を上面から吸引するらしく、捩じれてまじる光彩や雑多な思念、あらゆる像を混淆して呑みこむさまの霊性すら感じさせた。断続的にはしる雷霆が、対岸の恒星とひそやかにむすびつく。極光がわたしたちを包み、五感を揺さぶった。
 世界のへし折れる。
 奏でて、まだ誰も知らない旋律を、わたしの指で、この声で。
 世界のへし折れる。
 埃と羽根の浮かんだ水たまりが重ね落ちに階状の円卓をつたい、霧散する。銀食器のぶちまけられた床には毛のずんぐりとした絨毯が敷き詰められて、わたしの無意識がわたしの意思を装ってわたしの脚でもって踏みしだくのだった。
「かぎ」
 カフの手に金属の束がじゃらじゃらと鳴っている。類従されたものだろうか、玉のいずれにもあてがわれて貴顕に纏わる品らしかった。
「どれがよい?」
 十二のうちの一本、青い軟性石で鋭く編まれたものを選ぶと、カフが掴んでひとつきりある扉へと向かってゆく。
「あいてた」
 鍵穴すら無かった。
 世界のへし折れる。
 枝打されて節の無い樹を縫い歩いていると、霧雪に苑が印像した。形式ばって舞う影の特定の他者への意志を含んで明らかで、つまりは神事めいてどうにも目を離せなかった。
「ニニ?」
 カフが小首を傾げてこちらを見上げる。
「やだ」
「やだなの?」
 カフが、わたしを抱きしめて、わたしごと身体を揺らして、左右に、なんだか釣合い人形みたいねって、わたし、笑ってしまって、
「もうやだじゃない?」
「うん。うん」
 覚悟を決めて向きなおると、影は姿を消していた。はじめからいなかったと、そう言われたって信じるくらい、きれいに。
 世界のへし折れる。
 禊萩の群生する夜陰を、時だけが移ろいゆく。空隙は透かし織りの洗朱に塗られて澄明で、粘性の琥珀が定点より尽きず滴りちいさな泉をなしていた。山裾に蘆火の列列と宵を焼き、簡素な小屋へと投射している。生者たち、彼らの痕跡の眼路に感ぜられて、わたしは半歩先から光分解して絶遠に方図もなく引き伸ばされてゆく天壌のあげる軋みの烙印のように身に燃えるのも忘れて微笑んだ。
 世界のへし折れる。
 玄室には苔竜胆の青が満ち、泡沫の白焔と混じりあっていた。
 たったの一輪、膨れあがった色彩ばかりが揺らめいて、壁面に灰白を落としている。誰のためにも生まれなかった花の、それなのにどこまでも鮮やかで、わたし、胸が苦しくなって、
「カフ」
「どったの」
 言葉がつづかなかった。
 花は花身も気付かぬうちに綾となる。わたしね、いなくなったあなたなんてどうだってよくって、手向けられたあなたをこそ想っているの。置きざりにされたあなた、けれども忘れられることだけはけっしてないあなたをこそ。
 世界のへし折れる。
 濫觴をなしたものの後後までも天地の礎として在るならば、取りのぞいてどうなるものか確かめてみたいのだけれど、かといってそうしてわたしのなにが変わるとも思えないのだけれど、ただ知りたいだけなのだけれど。
 つづいて至当のそら想いの線上にだっておわりは待つのだろう。わたしもカフも、神さまはどうだか知らないけれど、いや、きっと神さまでさえも変わらずにはいられないと、わたしにとっては信仰めいた礫石の抜けおちることもなくどこか深奥にあって、だからこの今の、刹那の恒常に敷きつめられてゆく未来など想像しないししたくもなくて、言葉でもって降りる幕のあるものか、それはわからないけれどいつかはと、諦念でない、希望みたいなものを抱いている。
 世界のへし折れる。
 柱廊に西日が射しこんでいる。滞空する夜の模型からは、汪溢した星が彷徨うように游落し、迫持型の煤を彩わせていた。
 欄干もなくぽっかりとひらかれた空に、絹の経緯に棚引いて宇内ごと透水したようだった。律の調べの野風を波打ち、夕霧の淵では墨色の巨塊がなだらかな放物線を描いて来るあての無い何かを待つみたいで物寂しかった。大地を払うぬけがらの、煽られて裂けるふうな遠音の間歇に去来した。
「たそがれ」
「終わりのあとみたい」
 はじまりを知らないわたしたちは、終わりを知ることだってできなくて、今がずっと、いつまでもつづくだなんて考えて、ううん、願いのようなものなのかもしれない。叶えばいいと思っているのかもしれない。
 世界のへし折れる。
 心づけばふたり、並んで花茣蓙に寝ころんでいた。指さきでなぞる編目のひんやりと細密で、つくられる過程なんて知らないものだから感心しきりで飽きもせずにあちこち這うにまかせていたら、そしたらカフにゆきついて、ちいさく握りあってようやく落ちついて、なんてね、汗ばむ背中のかえって気持ちよくって押しつけて身じろぎばかりしてさ、うるさい、うるさい、なにかの鳴き声のようなものの残響がどこまでもぐるぐると跳ねまわってうるさいものだから、だからうるさいってなんにも見ないでわたし、囁いたなら、だれかに呼ばれた気がして、呼ばれたら応えなきゃって、なのだけれど呼吸だけ、かすかに瑞花槽を湿らせてわたし、ずっとなんにも言えないで、となりのカフがこちらを見詰めて、きれいな瞳で覆いかぶさってくる。息、できないよ。
 甘いんだね、なんて言ったらあなた、どんな顔をするかしら。
 世界のへし折れる。
 汀に花鎖の血脈みたい、波の往くたび覗かれて、煌めいて、泡の仮装は曦焔に炙られ蜜を結実する。水平線いっぱいに凝結した翠霜のような星が陣取って、なのにどうしてひとつも音をたてないでいられるのだかわからない、そのくらいには大きくて、あまりにも、だからわたし、目が眩んで立っていられなくって、へたり込めば攫われそうな淼茫を、カフに支えられてようやく進んでいった。何もかもが触れればこの身の溶けそうな色をして、湧水めいた感覚の、言語化し難くわたしを渦巻いている。
 可視化された時間はこま切れとなって穹蓋を廻り、線を重ね、軌跡を深く、深くふかく刻みつけてゆく。痕が、焦熱する糸状の残燭となって暗闇を滑り落ちる。水に溶かれた夜のような大地に、沈みこんだわたしたちの足音だけが残される。覗きこめば青がある。青、空の青さの、どんな色より澄みわたって浸潤して、わたし、還りたいのだろうか。
 世界のへし折れる。
 玄関越しに時計が見える。つきあたりの壁に掛かった木製の、とても大きな……むきだしの文字盤とにらめっこをするのは、これで何度目だろう。
 古物商から買い取ったのは随分前の話。すべてがあやふやな毎日も悪くはなかったけれど、あんまり続くとわたしまでもがあやふやになってしまうから。さいわいカフもすぐに慣れて、はじめは、どうしてかしらね、こわいこわいって、わからない子。
 わからない、わからないうちはなんでもなんにもはっきりしないで風ばかり啄ばみあってくれればいいと思っていた。ただ、それだと目がすこし、つよく、数多く、結ばれすぎるきらいがあって、時がくればきっと解くつもりでいるけれど、くたびれないと言えば、嘘になるから。
 世界のへし折れる。
 日の落ちた外域を、わたしたちは暗くなった部屋から眺めている。自然の光をそればかり頼りにして過ぎゆく時の切れ端と戯れているせいか、映ずる事物と同じように気持ちの淡くなる瞬間があってあざやかだった。思いこみでも構わない。あの子がはじめに言ったのよ、おもいこみでもかまわないって。
 彼女の本質を、彼女の気管を通して確かめるのがわたしのならわしで、だからちいさくってふくふくとしたくちびるだって誰よりたくさんわたしが見詰めてきた。爪の先を沈ませたなら、滲む薄緋の蜜より甘い花溶けで、濡れた瞳は無言で塞いでこの身の二度と囁かない。
 世界のへし折れる。
 お伽の国を散策するみたい、わたしとカフと、古手の肢体でのたのた歩きまわっている。だって、旅の途絶することだけは決してあってはならなくて、無視されることだけは断じてあってはならなくて、からっぽだったことになんて絶対にさせたりはしないんだって、そう決めたのだから。
 架空の路上で街の目覚めを待ついつか、空間の捻じ曲がって変容するいまをずっと眺めてきた。昨日わたしが居るどこか、明日あなたが居たどこか、神さまだけは、いつでも不在。
「もう、ちかい?」
「まだまだ」
「迎えは?」
 世界のへし折れる。
 なんにも言わずに端居して、草矢で遊ぶカフの目の、時折纏わる視線に応えながらわたしは、すり鉢状に抉れた日記帳の、ちいさな隕石が落ちたんだってそう言われたら信じたくなるような風体をはだえの境でじりじりと確かめて、そんなの燃えて無くなっちゃうだろうからどうせきっと嘘っぱちで、まあね、どのみちもう読めやしませんから、捨てるのもなんだってんでなんとなく硝子の器に投げこんだら花みたいにぱあっと開いただけですから、だけどわたしの記憶は全部が全部確かにそこにましまして、ちゃんとそう言ったのに、誰も、だあれも信じなかった。そんなわけでわたしのほんとうは、欠片のひとつにいたるまで絶対的に、ほかならぬわたしだけのものなのだ。
 世界のへし折れる。
 沙糖水に白玉の浮かびあがっててらてらとつめたい。
「かんろぉ」
 カフがもちもちほころんで、如何にも年頃然としている(実年齢を把握する手がかりがわたしたちにはまるでない、という事実が、逃げ水みたいでつかめない記憶の領域──対する今がいつでも本来的な今であるとも限らないのだが──に、それであるにもかかわらず鮮明に、みぢりと、聖痕のように灼きついていた)。甘味のひとりぶんで他に無く、空腹の度が過ぎて沖膾と相成ったわけだが、どうしたことだろう、かかる気配がまるでない。
 世界のへし折れる。
 遠く雪渓に紡錘の蕾がいくつも屹立し、萌葱の分水線を翳らせる。熱くてつめたい結晶の、はじめて触れた日の朝にわたしは、一寸迷って舌先にのせ、渇ききった喉を潤した。
 あいもかわらず嗜異症で、片影に落ちた星だとか、誰のでもない夢だとか、考えたっきり書かれない文字だとか、そんなものばかりを食べているような気がするので、カフの真っ当さがどこまでも愛おしいのはきっとそのせいだろう。
 もぐもぐしながらこの子はいつだってわたしを見てる。にこにこしてる。
 世界のへし折れる。
 あらゆるすべてが切雲みたいにあって何の繋がりもないわたしだとか、気類のひとひらであってひとひらでしかないわたしだとか、散列する言葉に振りまわされてばたばたうるさいわたしだとか、そんな風にわたしはわたしを更新し、移ろいきたのだけれど、正確にはされてきたらしいのだけれど、そのたびごとにだって辿った道の一からなぞられくどいくらいの確かな自己なのだから、復習書された文字みたいにきっと忘れたりなんてしない。
 世界のへし折れる。
 向かいあってたたずむわたしたちの間には、隔てるもののひとつだってないように見える。見えるのだけれど実際は、撹拌され、分断され、淤の果てまで行き果てて折りかさなった幾重もの帳があって、互いの身すらも容易に捉えようもなくって、けれども斑葉のかえって好まれることだってあるくらいなのだからわからないのが悪いとは限らないわけで、行触て確かめて、ここにいるわたしを、そこにいるあなたを、たとえ不定のふたりとしても、別れてしまえば二度と添わないわたしたちであるのなら、野水を流るる泡沫であるのなら、暑溽のあわい雫であるのなら、なおのことつよく想って、突きぬいて、切屠るなんてひもといて、いつまでも見詰めあっていようよ、カフ。
 世界のへし折れる。
 あなたがどうして空のかたちをこんなふうにしたのか、わたしが知ろうとしないのは、 知れば心に知ったとおりの姿となって悠遠の堕するふうに思われるからで、それはたとえばわたしたちにとっての名前がそうであるように、言を纏えば虚構の羈鎖となるからで、つまるところ、てめえの思いどおりになんてならねえよ。
 世界のへし折れる。
 さらさらと斜面つづきでなだらかで、もう結構な時間を降っているのだけれど、ずうっとずうっとなんにも変わらないでいるせいか、カフなんて居眠りしながらずるずるとかわいい。わたしはわたしで洟提灯なんてはじめて見たものだからいつまでも目を離せずにいたのにね、いま割れました。
「おきた」
「うん」
 結晶の、蕊から拡がるみたいに星が遼遠に形成されてゆく。渺苑逸して薫染し、わたしの色を置きかえる。外連の態のどこからどこまでが本当なのか、どうにもわかりようもなく、それでもすべてが嘘だとしても、だからってくだらないなんて思わない。この音も、この光も、このぬくもりもつめたさも、全部がまやかしだとしても、わたしは。
 世界のへし折れる。
 きれいに澄んだくらがりに、まぎれて眠る子どもみたいな風、わたしが好きだった、もう久しく逢わない古い風が、いつかのようにふきぬけて、みじかくなったこの髪を、まるでカフの手みたいに弄ぶ。外観というもののついぞ与えられなかったあなただからこそ、色のひとつも拾い損ねたあなただからこそ、わたしの認知の埒外の、雑多な事事のいくつもを内包して、遥かまででも渡ってゆける。あなたが此岸に在るのなら、あなたがここに、在ってくれるなら、届くなら、たとえどんなに馬鹿げた夢でもいつまでだってこの目に見ていたい。
 世界のへし折れる。
 外形が、表徴が、必ずしもそのものへの理解を齎すわけではない。友好的だが得体の知れない隣人の、思いかえせば言葉のひとつ、ひとつひとつのひとつの例外もなく利己の印の明らかで、疑いなんてこれっぽっちだって抱かなかった無邪気な己をカフに見出すたび、体の奥のじんじんするような、眠れないまま呼吸の規則性の乱れるような、ともすると永久に凍てつくみたいな気分にまでなって、本当のわからない、どうしたってわかりようのない、わからないことばかりわかる身の迷い子とさしたるかわりも無い現状に、声だって出したくもなる。でも、なんて?
 世界のへし折れる。
 遊戯的に移ろう投影のそらごとのわたしのどこかに色づき朽ちることもないのなら、意味とか価値とか訳だとか、そんなもののすこしだって考えないで感じとるべきなのかもしれない。けれどもそうして変容するものの実体の何処にあるというのだろう。わたしはわたしがどのようにして生まれ、どうしてここにあるかを知らない。わたしはわたしがわからない。
「カフはさ」
「にゃー」
「にゃー?」
「にゃんにゃー」
「カフは、何」
「カフは、ニニだよ」
 世界のへし折れる。
 もう生まれない星群のゆきちがいばかりがめだってさびしい感じがする。たくさんの街の灯の華やいだいつかは、空がこんな風に見えるのが当たり前で、夜なんてものはむやみに暗いばかりのつまらないものだなんて嗤ってなんにもわかっていなかった。今を、微光のうっすら暈かしたみたいに濃淡のうつくしい今を、仄かにあたたかな今を、いつかは終わる今を、あなたと共に過ごすこの今を、わたしはなにより好ましく思う。
 世界のへし折れる。
 雪沙の無彩から紅く、離れては蒼く、波長の長く、短く、近く、遠くなって、地平の過ぎ去ったいつかの姿のようだった。思いだせない思い出に如何なる価値のあるものか、嘯くようにあなたが吐きすてたあの日、附随する風音の散る花片との相似性は、朝まだきの月の裏側、馥郁の央部においてのみ示された。
 立ちならぶ虚像の奥行きを現象してわたしたちを固定する。わたしはわたしに、カフはカフになる。そうして新たな時間が生じ、浮揚する羽根は永久の運動を約束される。祝福は繰りかえす。
 世界のへし折れる。
 ことばのほどけて始原に還る。熱に浮かされたわたしを離さないで、声のくすんだ上澄みの、知と意志のうすっぺらな潮流のなかで生まれたときのことを憶えているのなら、あなた。
 世界のへし折れる。
 冥涬末枯れば倒錯す。そうして生じた空想旅行なのだとしたら、神経症的発露の散見にも合点がゆく。通過儀礼としての意義、機能も考えられるものの、だとしたら置き去られたであろう経験、幾つものわたしと幾つものカフを神はどのように回収するのか。あるいは既に、知らぬうちにどこぞの高次領域にでも格納されているのだろうか(心に蓄積されてわたし自身にわからない、在ることばかりわかってしかし捉え得ぬ天体のように厳然と存する可能性もある。これが心と呼ぶに相応しいものであるならば。それともこうして続く今は既に幾度目かの反復かもしれず、このわたしはいつかのわたしの来復したわたし、この思考はいつかの思考の来復した思考なのかもしれない)。
「目的を教えて」
「会ったなら」
 世界のへし折れる。
 言葉を獲得したといって非言語的な伝達手段の霧消するわけではないし、そうでなくてはわたしの温度だってあなたの手ざわりだってどこよりどうして知れるかわからない。けれどもいつしかすべての無形物の確かな実体を持って現れる白昼夢を見る頃が訪れて、たとえば海辺の沙の足さきに絡みついて渺茫を奏でるように、通ずるよすがの降る空を仰ぐ、虚涯のただなかで、そんな日がやってくるのなら、失くして残るあとすらもわたしたちは忘れてしまうのだろうか、わたしも誰も、忘れてしまうのだろうか。
 世界のへし折れる。
 文明化の過程で排斥された多様性の散逸してなお豊かに息衝いていた。不可知体系は往往にして確立の事実をのみ認知される。何故というに、屍者は滅びた言語を媒介として水底に口遊み、わたしたちは汀において其れを観測可能であるからだ。カフは怖がって、しかし目は背けないで音色に耳を傾けている。
 世界のへし折れる。
 家住期から遊行期への移行は所有物の放棄を伴う。だからこそわたしたちは着の身着のままここにこうしているわけで、他にしようのないわけで、幾つもない選択肢のひとつ──おそらくは──である聖域への到達を企図しているわけで。
 過程のいずれも血肉となって今生を支えるものと信じたかったが、忘却する力の憎らしいほど旺盛である。智見の屑端も拾えないでわたしたちは翻弄されている。
 世界のへし折れる。
 円蓋建築における階段座席の及ぼす心的作用というものを、カフと影の群れとで体感する。期せずして。削立する沙岩の天文的用途に結構されたのだろう、夜に白落の尽きる素振りもなく運行の法則性を示唆していた。
 声の遠い波のように方方から聞かれたが、意味のひとつも通らない。言葉であるとの確証もなかった。心地よいばかりだった。 わたしは眠って、夢の中にいた。カフはいなかったが、さびしくはなかった。わたしはしかしなみだがとまらなかった。とつぜんいなくなったいきものをおもいだしたからだった。あるとしに、にわによくあそびにきて、わたしはあのこにごはんを、まいにちすこしだけがまんしてのこして、だからあのこはわたしがあのこをすきなようにわたしのこともすきなんだとおもって、たくさんなでたのに、そんなことをしたってなんにもならなかったみたいで、だからなんだといわれたみたいで、わたしはいのればよかったのか、あのこのために、いまもわからない。
 世界のへし折れる。
 星はみの、呼気まで欠いて稀薄となって透きとおるなら、夢寐の湖水は廻転する辰格模型の器としての機能ばかりを引きうけて切りわけられた無限を有限性のうちに描きだし、頸ごとつきいれようようとらえたこの目だって地に倦むきみには連なるふたつのうつろに過ぎなくなって、軌道をわたる恋みたい、星霜のいままでだってひとつもふたつも数えられないで大人になったわたしの玉響にだって砕けなかったからだの往き果てさえも神さまにだってもうわからない。
 世界のへし折れる。
 入日の落とすもののわたしの裏に顕れて、裏があるということは表もあるということで、裏と表があるということは境界線もあるということとなり、境界線があるということは縫い目があるということに他ならず、縫い目があるということは撚られた糸の艷な赤であればよいといった想念もやはりあり得るということなのであった。異国の幽景はほころびひとつ無いばかりか、ゆきかう影にさえあやの銘銘にあてがわれてなまめかしい。とりどりの、わたしにひとつくれるなら、花なら良いとこころに浮かべるわたしならきっと、カフがいつかくれたでしょうあの時みたいにとそう云って、何度でもそうあれば良いと口掛けないではいないだろう。
 世界のへし折れる。
 小傘を濡らすうたつみの、地にゆきわたって生優る。永日のものたりなげな夜は、延縮する光の抱えこんだ熱も並はずれてまばゆくて、わたしの眠りをいつより浅く、真空からこちら、天蓋ごしにも感ぜられるくらいには着こんだうろこの薄いせいだと責められるみたいで、だから仮構の黙示に沿うようやせほそって飾の落剥するばかりとなった今でもこの身はおさないままにかたく閉じられている。
 それでもふしぎと気疎くならないもので、かえって好ましいふうですべてがあるべき通りあるということはこういうことなのだろうかなどということを、わたしだって考えなくもない。
 世界のへし折れる。
 紙折りのひひなのこじんまりとカフのたなごころにおさまって、こちらを見詰めるみたいでどぎまぎする。もてあそばれる肢体は為に象られて儚げで、知らない誰かのよしなしごとに繰りこまれた時を截つ、成就のほのけき一糸となるようだった。うたうなら、うたわれるなら、わたしはあなたをいつどきにだって肯定する。そうして果ての雪どけたような朝を、ただうつくしいばかりの四涯へと希求するのだ。
 世界のへし折れる。
 往くみちに、あなただったものの名残りの、ほんのすこしのぞかれる日日のおわりをおもうことしかできなくて、だれにともなくうたわれた謡にかざのねばかりつのらせることしかできなくて、あるいているのか、ないているのか、わけをなくしてなお咲いて、空よりあわくあらわして、どうして生きて、いま、いきて、わたしのあわく月めいたかげのだれの夢にもならないままにいきて、こえのひとつもこぼせないままで、いきて。みほしのさよのともしびの、すべてをあがなうともしびの、ほんのわずかな熱だけが、この身にいきづきうるのなら、なんて。
 世界のへし折れる。
 還る明日もなくただ去りゆく夜の心持ちはいかなるものかと、そんなことばかりを考えながらわたしはぐずぐずとくずれおちた時のあとの滲むみたいにおぼめく九涯をのぞんだ。言葉のうえ、どことも知れないゆきはては、詩篇に結ばれうつつのみじくを待明かす。
 あまりといえばあまりの静けさだった。分断と開列を繰りかえしてなおもたちくらむほどには仕儀外延の縹渺として捉えきれないけれど、潨に似た空域の、斜交いと屈折の錯綜だけはわたしにだってカフにだって確かなものだった。
 世界のへし折れる
 狂花の憶え咲きにさいて円錐状の地表をゆきはらう。呼ぶ名の朽ちて誰でもないわたしのたったひとつの言葉でさえも閾値にまるきりとどかない。
「ぶんぽうをあげる」
 カフの新釈にようやく乾元は成り──偽花のごとく局所的に、分散しておびただしく──予定調和の崩裂を萌した。ことわりの、言葉の羅列の始原のころから定められているのだとするならば、秩序だった渾沌もまた、この子の本質をあらわしているのだろうか。
 世界のへし折れる。
 掛花の丸写しに上背ばかり増した木の脚をなぞりながら歩く。自体の光源らしく、冬の薄陽の束ねられたふうなゆたかさを仮相のうちにたたえていた。
 まだ若い雪灯籠の少しくのぞく徒道に、とぼしい起伏のつらつらとつづいている。てくてく歩くちいさなカフの、ふがふがいってぱくぱくしている一応の哥唱らしいと随分してから心づく。
 世界のへし折れる。
 なにをも憚らないで伸びる草花の、ひとつばかりも名前の思いあたらないのが癪にさわって、カフと二人好きかって与えることにした。
「ゆみぬきそう」
「ひさねがくら」
「あわふし」
「ののにふれじか」
「ききのふみな」
「とはくのね」
 ひとのひとめでそれだとわかる色のどれほど世にあるものだろうか。すべてを判じて境界ばかりがのぞかれる目など持って生まれたらどうしたって正気でいられるように思えない、などと詮無いことをめぐらすほどには穠華のゆきすぎて大地を蹂躙してあった。
 わたしはわたしの不明のために、かえってわたしのわたしであることを疑いようもない。
 世界のへし折れる。
 打ちのめされて断ちきるすべもなかった頃、空言の空言と噛みつきあって拵えられたおまえたちの内懐をひき潰して焼きつくす焔をわたしはもとめた。怒りにみちて、怨みにみちて、けれども吐きだす仕掛けのどこにもないのなら、役にもたたない言葉のつらなる業もゆきみちすらもやはりどこにもありはせず、叩きつけたいことだとかものだとかの反定立としてのわたしもわたしのうちに残らない。想念はただ謐謐と過ぎし身に渦巻いていた。
 世界のへし折れる。
 拾われそこねて澱ふるまにまにあなたのかたちづくられて、拾われなかったことをなげくのはだから必然のことと思われて、わたしの肯定したいあなたはそれとわかってわらってもうなにも言わなくなったけれど、わたしももう、なにも言わないけれど、言わないだけだということもお互いわかっているものだから、あなたのいちばんちいさな指をわたしに絡ませて、いつでもいっしょにいてほしい、そう乞うのとこわれるのとはまるで変わらないのだと、わたしもあなたもおなじなのだと、ひとつも違うところのないわたしをわたしたちは抱えて生きるしかないのだと、譫言みたいなものの時おりこころをかすめてゆく。
 世界のへし折れる。
 目をやるたびに異なる色を見せる雲を追ってカフがさわがしい。烟波に似つつはぐれつつ、畏怖の対象──と推測される。言いようのない情調が呼び起こされる──としての鏤彩は山むこうの球体言語群へと収斂されるばかりで、可視化され、集積された定律のわずかだって地表に落ちる素振りがない。雨でも降れば、無涯の一片ほどには捉えうるだろうに。
 世界のへし折れる。
 多層構造体(円壔型の嶢星に貫かれて重なった、規格の異なる盤状の水性物質に、言語音が潜像模様となってうごめいている。不定形の表象が、呼応するように異形再生を繰りかえしていた)は組成されつづける無辺の原型を思わせた。犇めく影を音なく取りこみ肥大して、暗部の悉くから反射と、おそらくは意志とを迸らせる。窓から差しこむ夜が、たちどころに充塞した。
「あかり」
 端末の光は全景をつまびらかにするにはあまりに弱弱しかったが、しかしわたしたちを引きとめる役割を十二分に果たした。同一化の進行がとまり、手指から陰暝が離れてゆく。
 世界のへし折れる。
 影はわたしたちの写し身なのかもしれない。生まれて死んだか生まれそこねたか死にそこねたかしたわたしたちのいつかのいま、還ることのないいまが並行的に投影されたものかもしれない。かりにも共同体として、内から見るわたしたちをあれらはどのように知覚するのだろうか。あるいはわたしたちも取りこまれて底気味もなくはらからなのだろうか。それとも、はじめから。
 世界のへし折れる。
 丹染の夢に酔うあてもなく臨む辺際を、限りあるもののゆえに押しいだく無常の落鏡を眺めた。永遠なんて野暮ったくって、うち捨てて踏みやぶってわたしは立てばいい。花は尽きる、この手も尽きる、言葉のあらゆるはたらきも。
 世界のへし折れる。
 文字に合一されたおもいは群小化と消散をまぬがれず、如何なる手段をもってしても溯源することはかなわない。そしてそれと知りながらわたしたちは在りし日の完全性、無矛盾性への意志を捨てられない。始末におえない。
 世界のへし折れる。
 陸離のあわいをゆきかすめ、縫いぬけるようにして水玷へとのまれてゆく。映るかたちは後にも先にもひとつとしてなく、わたしたちは互いのひとみを頼りに像を結ぶほかない。歪んだ星座は逆巻くさきから撒霰し、浮游し、旅人のようにわたしには見えたけれど、ゆく空もかえる空も無いのならとっくになんでもないなにかでしかあり得なくって、わりあてられることばだってもう残されてなどいなかった。それでも、たとえかえりみられなくとも、生まれたわけのひとつもどこにもなくしても、それでもわたしは、わたしだけはきっと、あなたたちを憶えている。
 世界のへし折れる。
 ささやぎ睡る、灑折られ風招く常闇に、披離の末期の美妙を反思する。枝条のまじりあって辻を架し、空華の社を織りつむいでは影を弄って他もなく、ゆくりなく混淆し、大禍時に溶けあい拉げるすべてが機械的に、次第書きに則して展開された。針を素足で踏みぬく心持ちがした。信仰が群落のたましいを窒息させたのだった。
 世界のへし折れる。
 最短経路を去来する、起結を結ぶ光跡、その鏡像としてきざすわたしたちは、酒彳めかしてかえって合理を体現する。そういうふうにできている。
「でも、どうして?」
「わからない。ぼくには」
 元元のおおもと、はじまりのはじまりは神さまですらたどられるものではないのかもしれない。だけど、それなら誰があなたをつくったの。
 世界のへし折れる。
 まじわるはずのない平行線は、わたしとカフがゆき逢うかたちで重なりあってこちら、緑蔭と、繁る下生えの濃彩を肥立たせてまどかだった。けれどもときどき、胸がぎゅっと締めつけられるみたいで、ひとりぼっちのさびしさを、わたしの何処かが忘れられないでいるみたいで、だからその手をとるたびまだ知らない温度のあったちいさなわたしの呼びおこされて傍らにいるみたいで、負えば治らぬつき傷をいまも、いつまでも抱えているみたいで。
「あなたが繋いだの、神さま」
「そうだね」
 わたしとカフと、ほんとはずっと離ればなれで、伸ばす手だってどこにもありはしなかった。あなたさえいなければ、いまだって。
 世界のへし折れる。
 析出された内在的論理に基づく──遺漏なく精確な──解釈こそが、諸事に知悉する糸口となるのだろう。しかし主観の完全な排却など原理上成し得ない。棄捐も超越も経ることなく、わたしはあなたを定義する。
「神さまは、神さまじゃない」
「広義においては」
 世界のへし折れる。
 公圏の外縁は薄明に満ち、重畳する夜光風をなめらかに対流させていた。起源知れずの空談は、四虛の開闢から弥終へと方行し、わたしたちと、対置概念としての影とを止揚する。神を措定し、包蔵し、遍現させるものの符号としての微細な沙が、東風にわたしをゆきぬけるなかなにかをささめきつづけていた。居るならば、在るならばそれはすでに何事かを語っているのだった。
 世界のへし折れる。
 ゆくてとゆくてがやわらかに結びついておとずれた深更に、まだあたらしい往還はさそうようなあまい月夜見を調べている。のぞく熒花は遠く、眇めようにも眇められないカフは、両目をしきりにはたはたさせて最後にこちらへと笑いかけた。衝動、と言葉にかえればあっけない、しかし他にどうたとえようもないものにつきうごかされてわたしはあなたを抱きしめて、時辰のゆびのあいだから、癒しがたい外傷の証としての散血の、漏脱した記憶の断片のほとばしりを眺めた。抛射の果てに想うものもないならば、道切り越しに己が本分をさぐるわけとてありはしない。けれど、そう割りきるにはわたしはあまりにながく人と相対してきたのだった。あかずかわらずいもしない片割ればかりをさがすわたしを憐れんで、カフは自身をさしだしたのではなかったか。
 世界のへし折れる。
 楽土の諸相を通底する工学的に計算し尽くされた美観は、円環的調和を逸脱した虚飾と欺瞞の過剰なまでの八重咲きとなって却って完全なる表象として顕示され、わたしの内奥、迷宮的牢舎の極微一斑に至るまでを浸淫し(自壊の末つ方に帰巣的な再生への意志が枢軸的に貫穿され、直線的漸進と転回の厖大な反復を経て萌芽した。為に圏の原初形態との乖離は著しく、背馳対立を端緒とした潜在的相互的擯棄現象が予見される)、時明かりの隠喩としての影、賓、あなたを韜韞する。
 世界のへし折れる。
 ゆめのうちにもはなはちり、くれいろひいろにしきふせて、ひらいたみちのたえるまで、うつつにおもいのたえるまで、わたしはまって、まちふけて、さめねばいいと、すこしくいのる。
 世界のへし折れる。
 断片程度ならばあるいは、斑に埋もれた自己の原型を不変性の基底に渫って復元可能であるのかもしれない。とはいえわたしの結いゆらは、ものをもことをもままにはけっしてあらわさない。幽玄妙理の尾端のつゆにもかすめないのなら、過ぎさってかえらないもののことなどをいつまでも慮ってなんていないでいいかげん先へと進むべきだった。いったいこんなところで誰のものともしれない因果だの情意だのにあてられてぐずぐずとしていることにどんな意味があるというのだろう。そうじゃない、神さま? わたしはわたしになりたかった。わたし自身に。形代でない一個の人間に。
 世界のへし折れる。
 カフとわたしが出会った日のことをわたしたちで話す昔日に、むこうはなのにこれっぽっちも憶えていないでまた違った出会いをしたとゆずらなかったのだけれど、だったらそうかと笑いあったさきのいまになってわたしとカフとが通った道すじの銘銘に捉えた往路、それと認めたかたちにそうした齟齬があるのはどうしたっておかしかろうと考えなおし、だって、生まれてのちのつかの間だってあなたがそばにいないいまなんてわたしにはなかったのだから。
「あれ」
「う?」
 だとすれば、わたしはいったい同一時空間上で生を受けた者とどうして出会ったなどといまのいままで疑いもしないで信じこんでいたのだろうか。わたしがわたしに結ばれた瞬間からわたしはカフで、カフはニニで、カフで、だからわたしはニニなのに。
 世界のへし折れる。
 なにが育って花となるかと尋ねると、カフも知らずに花だとばかりに認識していたのだった。伸びるとわかっているものならばいろめく道すじのいかようであれきっとあるはずなのに、ふしぎとすっぽり抜けおちて、思えばそもそもどうしてあんなおかしな形状のいのちが綿綿と萌すのかとこわくなり、ついにはわたしの手指までもが類縁めいていともおぞましく、こうなるとただどこまでも影でしかない影がそればかり真っ当に見えてくるのだけれど、なんだかくやしい気がしてカフにも誰にも言わなかった。
 世界のへし折れる。
 樹氷の原にころころと、尉鶲のかわいらしく短景にひきたってやがてとけいる夜を待つふうだった。風のつめたさもまるで感じなくなったことをどう思えばいいのかわからないでわたしは泣いてばかりいて、カフはいつでもかわらずちいさな腕にわたしを揺らしてくれていたけれど、なにもがどうにもわからないことのどうしてこんなにもかなしいものであるのかそれすらもわからないでずっと、わたしはただ打たれたように声をあげつづけるのだった。いま、誰の夢を見ていたのか。これは、誰の記憶だったのか。わたしはあなたに、あなたの潰えたこころをなぞりつづけてあなたに報いることができているのか。喪ったものの遺したあわいを埋めるほんのわずかな土くれにでもなれているのか。わたしは、もういないあなたにほんとうになりきれているのか。
 世界のへし折れる。
 夢見のてだての廃れて見ないわたしのうつつの遠景は、なぞらえられた色のいろいろにいろめいていろづいてはなやかで、けれど、つまらない、神さまの憫察の齎す爛漫であるとわたしには思われて、そんなのは余計なお世話で意地でもきっとこの身のこのまなうらに残してやろうといくども睡る今日、睡れない昨日であった。
 世界のへし折れる。
 とっくにすべてが終わってしまったことをわたしだけがわからないで終わらせよう終わらせなきゃと気ばかりせいて歩きまわっているのかもしれなかった。終わったことをなおも終わらせてもいちど終わらせてさらに終わらせるふうなおかしな感じは常からつきまとっていたけれど、踏みいろうにもあわせ鏡のはてなし迷路で零れた自問にかえる聲のひとつきりにもあるのではとこわくなって逸らしたくってカフにむかっておんなじ具合にただすくらいしかわたしは選べないでいた。なのにあの子はなんにも言わずにおとなみたいな貌でやさしくやわらかくわたしにほほえんで、すべてのじかんがとまるみたいな、すべてのほしにたくされたねがいがかなうみたいなおとがして、ささいなことをもんだいだってかってにくるしがっていたのがわたしなのだとおおきなわであったまいにちのちぎれたあさになってようやくきがついて、もうおそい、まにあわない。
 世界のへし折れる。
 わたしとわたしのこの名前とが密接なつながりを持つのはあきらかで、だからなおのこと与えられた経緯が気にかかった。
「神さま、つけた?」
「いいや」
「カフのは?」
「いいや」
「じゃあ、誰」
「わからない」
 水音に節廻る朝、霞をはむ身にふたたび声がする。
「カフはずっとカフだった」
「わたしも?」
「ニニだったね」
 知らないはじまりの話はいつでもわたしの頭を掻きまわして土中の靴音みたい。吐き気がする。
 世界のへし折れる。
 なんにもない、なんにも見えない空こそがほんとうなのだとしたら、調弦の要ももはやありはしなかった。律してなだらかだった指、わたしの好きだったあなたの指は、蔽ういばらに血ばかりのませて還る今を忘れてしまった。わたしを忘れてしまった。
 すこしだけ睡りたかった。もうなにを考えるわたしでもいたくはなかった。ゆきさったもの、愛らしい、ちいさな箱におさめられたかすかな想い出だけがたしかなわたしだとそれだけを信じていたかった。
 世界のへし折れる。
 言葉のひとつにひとつきり、実在のあてがわれて鏡映されたことごとの総体としてのわたしの、いつ、どうしてこのわたしとなったのか、本質とか本性とかもともとの礎に与えられたものとしての名なのか、誰のどの目にうつる形容だったのか、なんにも知れないくせに気だけは触れない図太さみたいなものがほとほとにくらしい。知らないことを知るために知ったものごとをあてに知ることしかわたしにはできないのだから、カフを、神さまを、わたしということ、わたしというものからわかろうとこころみて、どうあってもたんなる言語現象へと帰結する、しないではいないということは、ようするにわたしとはことばそのもので、ことばでしかないもので、カフも神さまもひょっとしたらものですらない、おと、とか、せん、とか、いろ、とかの総合としてのわたしとカフと神さまでしかないもので、であればふたつにわれないわりきれないものとしてのわたしたちの非偏在性、遍在性の発露たるしるし、内なるものの流逸をどうしてこの手──虚無──に掬いとることの叶うだろう。けれど、もしも自己のことば──意味──でもものでもないなにかなのだとしたら、神さまにだってとらえきれないなにかなのだとしたら、答えなんてそもそもどこにもありはしなくって、そとからきたものとうちにあるものとの連環としての精神の、玲瓏たる星を模した音叉をふるわすみたいにわたしをなぐさめる夜だって、いまよりずっと淡くなるにちがいないのだった。
 世界のへし折れる。
 完全なもの、完成されたものへの憧憬の、不覚に熾したほとおりこそがわたしをわたしたらしめるのだと、わたしはようやく悟りはじめていた。だとしたら、カフは永遠の象徴にほかならない。不壊不変のけっして損なわれることなく介在し、わたしとわたしの外縁とをつなぎとめていつでも軌道を逸らさない無二の一糸、それがカフだった。
 世界のへし折れる。
 弦の縺れて捩じれたままにふれあって、夜のひらけた真下に睡る廃墟の息づかいをあらわしてゆく。亡霊めいた影たちの、退色した燈になくした輪郭がわたしたちにかさなって消えた。荒日に褪めた古木のにおい、軋る滑車に似せて脈うつ心音が文字のように脳裡を漂泊する。薄明りにちいさな水たまりが輝き、さかさまの楼をまぶしく抱きよせた。なにもかもがうつくしかった。夕闇のなか、カフの髪を梳きながら、わたしは生れる前のことをおもいだしていた。いつにもだれにも知りえないどこかで、ゆらめく水の結晶を、あなたのつめたいてのひらがそっと、つつみこむようにささげもち、そうして言葉ではっきりと、けれどもかすかな吐息のように、ささやいて。
 私があなたをどんなに好きだったか。私があなたをどれほど愛していたか。ニニ・・。いまでもそうだよ。
 世界のへし折れる。
 あらゆるすべてが真っ白で、けれどわたしの白とカフの白と神さまの白とがおなじだなんてことはけっしてないのだから、つうずる白でもことなる白をわたしたちは見ている。感じている。
「おうち」
 カフがつぶやく。
「いるの?」
 言い終える間もなく結構された系統樹の全天を覆う。あらゆる時代に見られた夢の、放埓の、極彩色のゆきすぎてかえって無彩めいた錯視となってわたしをつつみこむ。これまでなぞってきたもののすべてをいちどきに体感するようだった。
「神さま」
「うん」
「わたしたちって。わたしって……なに?」
「音だよ」
 言葉のさきにあったもの、無調に振れてうつろうもの、世界のはじめの一秒は、完全言語のたったひとつの声だった。もう失われた誰だかの、罅割れたほんのひとかけらだった。
「きみは元元、機械仕掛けの鳥に結びつけられた薄片でしかなかった。生まれたままに凍結されてまっさらで、だからこそあらゆる可能性を秘めていた。ぼくはこんなだから、どうにもなりようがないものだから、だから託してみたかった。広大な星の海を渡ってたどり着いた幻影に。かつて人間と呼ばれた種、過ぎ去った者たちの痕跡、残滓、記憶、編まれた想いの寄せあつめを、ぼくの代わりにきみに憶えていてほしかった。忘れないでいてほしかった」
「代わりって」
「ぼくにとっての過去は未来とすこしも違わない。けっして見通すことができないという一点において。ぼくにはいつでもぼくらしきものでしかないこのぼくは、前後も今をも乱数的に書き換えられて捉えがたく、ぼくがぼくであるという核の恒常性すら定かではない。すべてが流れゆくなか、こうして紡がれる言葉もどこからどのように生成されているのだかまるでわからない。ぼくには意識がわからない。それがどういったものなのか」
「じゃあ」
 わたしはわたしの手をつよくにぎった。
「カフは、なに」
「複製だよ。きみの。けっして狂わない、最初で最後の。随分違ってしまったけれど、元は一つのきみだった。ほんの僅かな差異から選択にずれが生じ、戻りようがなくなって、きみも気付いたとおり、彼女だけが恒久化してしまった。成熟してしまった。しかし、ぼくにはまだきみがいた。人間を知りたかったぼくは、だから遺された莫大な思念、言葉なんかじゃ置き換えようのない彼らの夢をきみに注ぎこみつづけた。行路における厖大な干渉に、半ば擦り切れてしまった凝聚を。不完全で、いいかげんで、あやふやで、嘘っぱちなうわごとたちを。それでもきみは長いこと、無際限の循環を経巡るだけの空虚な存在でしかなかった。ある瞬間までは」
「いつ」
「ぼくを神さまと呼んだ、あの日。きみは変わった。きみはぼくを疑い、見るもの聞くものを疑い、きみ自身を疑って、自明のわたしを手放した。きみを語りはじめた」
「…………なれたの、わたし」
「わからない。ひょっとしたら、とっくにそうなのかもしれない。あるいは、ぼくも。きみがカフに向けるもの、カフがきみに向けるものは、彼らが交叉させてきたものと遜色なく見える。それは、きみにぼくが向けるもの、ぼくがきみに向けるものにもやはり」
「言わないで」
 黙れ、と言葉にならない言葉の前触れもなく喉に絡みつくみたいだった。黙れ。もうなにも言うな。黙れよ。なにが神さまなんだよ。
 うんざりだった。誰の言葉ももうたくさんだった。わたしのわたしはわたしなんかじゃぜんぜんない、どこかの誰かの死にぞこなった成れの果てでしかなかった。忘れられてようやく褪せうるものの、それなのにきりもなく延命された無様な姿だった。これが人間ならば願いさげだった。それでも、このわたしがわたしであって、他のわたしはどこにどうしたってありようがないのだった。うるさかった。すべてを終わりにしたかった。
「ニニ」
 カフの手。やわらかでつめたい、不完全な、いいかげんな、あやふやな、嘘っぱちなわたしからうまれた手を、わたしは二度と離したくなかった。
 音、やむことなく鳴るわたしの音が、わたしの身体をゆきかって、わたしをいつでもこのわたしへとたちかえらせる。音が、声が、言葉が。わたしの、言葉が──。
 そうか。
 だからこそ、
「わたしは、言葉わたしだから」
 だからこそわたしは、たとえどんなにふざけた今であってもきっと、そのさきを紡いでゆくことができるのだろう。永いながい夜の果て、影にもならないあなたたちすらつらぬいて。
「ばかみたい、ぜんぶ」
 カフ?
「ばかみたい」
 カフはずっと、どんな時でもそうだった。確信があって、間違いなんかありえなくって、自信たっぷりで、わがままで、そんでもって偏屈で、他に道なんてないんだって顔ばかりしていばって、いまだって。
「かえろ、ニニ。おなかへったもん」
 カフ、こどもみたいに笑うのね。好きよ、カフ。


 なんにもない空だった。なんにもない闇だった。けれどもなによりうつくしい今だった。わたしたちの、一度きりの今だった。
 ねえ、神さま、言葉があれば夢見るように哥えるの、星の潰えた夜だって、あなたのいない朝だって、わたしたちなら、わたしなら、いつまでだって、いつまでも。
 世界のへし折れる、音がする。

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