人間にそなわるものとして聖性と俗性のふたつの性質があるとします
聖俗
辞書的にいう聖人とか俗人とかのあれです
というと少し極端な感じもしますがまあそんなようなものが存在し、わたしたちは両者の間のどのへんだかに位置している、そういうこととします
位置は大部分、成育環境に決定されるように思います
遺伝の影響もあるかもしれませんが、まだ勉強していないのでわかりません
一応ことわっておきますけれども、どちらが良いとか悪いとかすばらしいとかくだらないとかいう話ではありません
悪しからず
聖性にせよ俗性にせよ偏りすぎると社会における生きづらさにつながる傾向があります
聖性のつよい人間が俗性のつよい人間を嫌悪したりその逆があったりと、関係に齟齬や軋轢が生じやすくなるためです
世渡り上手などという言葉がありますが、そうしたひとたちは聖俗にかぎらず各性質の適切な配分を見極める能力が高いのでしょう
あるいはもともとがそうした生き方に適した聖俗のバランスであるのかもしれない
しかし偏りのある人間がそれを隠しとおすのは困難です
どこかでかならず無理をすることになります
どうしてこんな話をしているかというと、これが書くという行為にも関係しているからです
本題に入りましょう
わたしに底流しているのは聖性で、それは作品にもあらわれています
聖性に振りきったゆきひらさぎり(ねこ)が俗性のモチーフをまじえつつ書くと『spherules』や『まどろみにえいえん』ができあがります
反対に、俗性に振りきった人間が聖性の題材をとりあげてものを書くとそういう作品ができあがります(どういう作品だ)
聖性寄りの人間が読むと俗性寄りの作者のとってつけた感はそこそこわかります
俗性寄りの人間なら聖性寄りの欺瞞に気づくはずです
絶対じゃないです
隠すのが上手い人もいるので
では、なぜわかるのか?
二重の嘘だからです
創作物、引いては言語そのものが虚構の産物、というかその親玉みたいなものなんですよね
わたしたちは文字というそのものではないいわば代替物を用いてそのものについて語ろうとします
とにかく物でも感情でもなんでもいいですが、言葉に落としこんだ時点でそれはそのものとは似ても似つかないたんなる音や記号となります
本質だの真実だのはどこにも宿りません、錯覚です
なので千言を尽くそうがほんとうのところは誰にも一切伝わりませんし理解もできません
わかりたいもわかられたいもないんです
そもそもわかりようがないんだから
なにをどう書こうがどう話そうが最初から最後まですべてが嘘でしかない
わたしにあなたはわからない
これが言語を扱う上での大前提です
なのでそもそもが大嘘でしかない言葉というものにさらに作者自身の嘘までがまざりこんだ時点で相当に目立ちます
立場や視座のちがい、事象へとむかう作者の意思なりなんなりのひとつひとつが、語の選択と並び、細部から全体にまで反映するのです
見えもしない聖性、わかりもしない俗性をとりあげたところで大抵うまくは結べません
もちろん、そうした部分は後天的にカバーできます
先人の描写や型を拝借することでそれらしいものになるでしょう
学習し、磨き、職人的に生産すれば、場合によっては本家以上の評価を得られるかもしれません
でもたぶんやっている本人が納得できません
一切の呵責なく摸倣できる人間なら大丈夫です
しかしそうでない、これはわたしの言葉じゃない、と誰よりもよくわかっていながらそれでも書いてしまった人はかならずどこかでしんどさを感じます
なのでそうしたところで葛藤してしまう書き手は他者の目の一切を気にせず全力で書いてみるのがよいだろうな、と思います
書きたいものを、迷いなく、心血をそそいで、です
(自分にとっての)完全な一作というものは他者性を排し孤独をたもち己と向きあい過去から現在までのすべてを燃やしつくしたさきでしかかたちにはなりません
おそらくそうした経験を経ないかぎり自分の位置も志向も正確にはわかりません
わからないうちは書くものもきっと定まりません
最初期のわたしもそうでした
いまのゆきひらさぎりは誰のためにも書いていません
それがわたしの本質で、そうでなければ維持しようのない聖性だからです
あるいは才能と呼ばれるものは自己の性質への理解が関係しているのかもしれません
他の誰にも似ないくらい特別なものが書ける瞬間があるとして、自分自身から目を逸らしているかぎりそれはけっして訪れないと思います
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