自分の言葉の選びかたについてすこし考えてみたって話

創作

言葉のほうからやってくる

基本的にはむこうから選ばれにきます
で、あるべき位置へとおさまる

こちらから選びにいくと歪みます
かたちになったと思ってもどこかが必ずおかしいのです

もちろんわたしが勝手にそう感じているだけなんですが、ちょっとたえられない状態です
わたしの方から言葉に働きかけると大抵そうしたことが起きてしまいます
言葉の持つ性質を無視するからでしょう

性質、といっても語義をのみ指しません
音やかたちや質感、もっとふわっとしたものまで含めた全体を意味します

これは感覚的につかむしかありません
言葉の意味をこえて立ちのぼる何かをつかむことで自在性が強化されます

望めば望むだけ自由に、どのようにでも描きうる、語りうるようになるということです
通常考えられない言葉の並び、語の接続はこの感覚がわからないかぎりうまくいきません
小手先で片づくものではないです

といっても調子の良し悪しというものがあります
わたしは夜は駄目です
夜は寝たほうがいい

あと、倣(習)って身につくものではないので、勇気をもって踏み出す、踏み外す必要があると思います

偶然からひろがる世界

たまたま目にしたものや文字、言葉からひろがってひとつのかたちに結ばれることがあります
目にしたもの、と書きましたが肉眼で捉えられるとは限りません

わたしの場合は多く心象にあらわれます
なので誰に見せようもないのですが、そうした不可視のイメージが根源にあり、それを言葉に写しとっています

ですからたぶん、わたし以外が読んでも思い描けもわかりもしません
そしてそれでよいのです

存在しない言葉はつくりだせばいい

文章を書いていると、必要な言葉がまだ生まれていないという事態にぶちあたることがあります
その際は迷いなく造語を用意します
言語に完成は無いので遠慮はありません

大抵はその瞬間に最適な言葉が生じますが、なにも出ないこともあります
そういう時は気分を変えて別のことをします

といっても横になってふがふがいうだけだったりするのですが
そうこうするうちにひらめきます

ひらめいたら脳を褒めたたえます
えらいので

伝達不能なイメージをこそ言語化する

先に触れましたが、誰に見せようもないものをこそ言語化する、というかたちの表現がわたしには多いです
書くわたし(ゆきひらさぎり)ではなく書かれるわたし(とかあたしとかぼくとか)によって抱かれる像をよりどころとしているわけです

かれらの見るものがわたしたちの暮らすこの世界に存在するとは限らず、いえ、ほとんどが存在せず、ゆえにわたしたちの側から認知することはまずできません
在るものをそれと伝わるように書くのではなく、無いものを無いと確かめるように書いています

架空のわたし、存在しないあなた

語り手であるわたしもわたしが見つめるあなたも地上のどこにも存在しません
いる人をモデルに書くという手法もありますが、わたしには無縁です

わたし自身の姿もほとんどどこにも投映されていません
現実のこのわたしがなにをどう感じるかということは記事なりなんなりに好きに書けばよいと考えています
作品を構成する要素にはなり得ません

どれもこれもわたしが書かねば成立すらしませんが、わたしとは無関係に独立してあるような、あってほしいような気持ちでいます

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